WAO
茨城空港から来て
第6回オープンアート
行方アートさんぽみち
行方市沖洲の 桜トンネル
気分も新たに、何か始めてみませんか?
もうすぐ春ですねぇ
行方市からのご提案
桜満喫とアートココ

ご本人も在宅ですので、気軽に質問することもOK。
ご近所さん的感覚で訪れてみてはいかがでしょうか。
【日 時】 4月3日(土)~5日(月)
【同時開催】八郷瓦と稲田石 作品展示
気持ちいい~
ヒャッホー
行方市沖洲芸術村の沖洲桜トンネルは、道の両側から桜がお出迎えしてくれます。
オープンアート事業では「商店街まるごとアート」・「大場家住宅でアート」もおこなっています
【商店街まるごとアート】
期日:4月3日(土)~8日(木)
場所:玉造中央商店街
内容:各店舗に作品を展示
【大場家住宅でアート】
期日:4月4日(日) 10:00~15:00
場所:県指定有形文化財 大場家住宅
内容:2作品展示
ここは、代々水戸藩の大山守を務めた旧家
なんて 素敵なの
なめがたの誉れ
江戸時代歴代にわたり水戸藩の「大山守」を勤めた家柄であり,時には庄屋や御留川の川守も兼帯していた名門
この住宅は,水戸徳川家初代藩主徳川頼房が領内巡視のおり,宿舎兼水戸藩南部の藩政事務所として,寛永(1629~41年)年間に建てられたものとされ,武家屋敷造りで御殿とも呼ばれた
寛永5年(1628)6月10日、頼房の第3子として水戸城下の家臣屋敷で誕生したのが、2代藩主となった後の黄門さまこと徳川光圀であった
人生楽ありゃ苦もあるさ
うふっ
大好き
黄門様
水戸黄門は茨城の大スター
光圀の小青年期は、自由奔放な生活をしていたようであるが、正保2年(1645)18歳で司馬遷『史記』伯夷伝を読み感奮したのが転機となって、私たちのよく知る仁政といわれる領国経営を行うようになったのです
光圀は、社寺改革・上水道整備・金山開発・殖産興業をはじめ、『大日本史』編纂事業や『快風丸』建造並びに蝦夷地調査等の多くの事業を行っています
行方にも水戸藩領
水戸黄門こと徳川光圀は、隠居後は
太田に居を構え領内を巡検の旅を
水戸黄門のなめがた漫遊記
孝子弥作の像(行方市)
親孝行の姿伝える黄門さま・・・
東福寺に入ると、右手にがっしりとした男
が老いた母をおんぶしている。
二人は笑顔で語り合っているようだ
受け継がれる感謝の心 ココ
弥作は実在の人物だ。江戸時代前期常陸国玉造浜村の貧しい家に生まれ、父を早い時期に失い、母の手で育てられた。十歳のころから働いて生活費を
稼ぎ、病弱な母をいたわった。また、信仰心のあつかった母のために、説法
のある日や縁日には欠かさず背負って寺に連れていったという。
弥作の孝行ぶりは村の評判になり、第二代水戸藩主・光圀の耳にも入った。
光圀は一六七四(延宝二)年、領内巡視の際に同地に立ち寄り、弥作を馬前に呼んで金十両を授けた
きっと大塲家へ宿泊されたのね
藩主の徳川光圀(水戸黄門)、徳川斉昭も宿泊した御殿
大塲家の建築様式は,主屋が萱葺寄棟造りで,役宅部・居室部・相の間の三連から成る規模の大きな住宅である
大場家住宅の表門と通用門(右)
長屋門は,藩主が御成の時と元旦以外は開けないことから「あかずの門」と言われている街道に面し,一段高く置かれた萱葺寄棟造りには風格がある。
居宅・長屋門・薬医門が県指定有形文化財に指定
黄門さまは、元禄3年(1690)に家督を兄の子である嗣子綱篠に譲り、晩年は太田西山荘で『大日本史』編纂事業に打ち込むとともに、領内の巡遊や領民との交流に時間を当てた
大塲家は、光圀が巡見の時に宿泊所としたと言われる。水戸藩に持山を献納した際、光圀から大場家に因んだ地名の改称を受けたり、別に愛用品を下賜された
この いろりのあるお部屋で、ゆったり
大塲家郷士屋敷
本当に風情のあるお屋敷です
〒311-3512
茨城県行方市玉造甲4533 ココ
幕末の行方市玉造
~斉昭と慶喜その時代~
第9代水戸藩主徳川斉昭は、第2代の光圀同様、行方の玉造地区と深い関わりを持っている。就藩の際には玉造地区に訪れ、湖上での軍事演習をするとともに、大場家に宿を取り和歌を詠んでいます
