行方市のバスで研修会
麻生新庄会の観光ボランティアさんの移動基礎研修会です
麻生藩は、近江地方出自で豊臣秀吉に仕えた摂津高津城主の新庄直頼(なおより)が、関ヶ原の戦いで西軍に加わり改易となりましたが、慶長9年(1604)に徳川家康との旧交により助けられ、常陸国行方郡・新治郡・真壁郡・河内郡・那珂郡、下野国芳賀郡・都賀郡・河内郡内に、改易前と同様の3万3百石余の領地(『恩栄録』)を与えられて、常陸国行方郡麻生を根拠地として成立しました。
常陸国では珍しく、細川氏の谷田部藩と2藩だけの外様藩であり、両藩とも幕末まで続く極小藩でした
向日葵の花が印象的な行方市の福祉バス
です わ~い
わ~い
やっと
ここに来ることができた
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新庄氏ゆかりの地へ
麻生新庄会、麻生陣屋大通り商店街会員
等が麻生地区最大の地域資源である外様
大名新庄氏について理解を深めるため、
新庄氏江戸ゆかりの地を訪問し、観光
ボランティア活動の実践についての資質
を高めるとともに観光を活かした地域
産業振興に寄与することが目的です
03-3823-2010
行方歴史の要の植田敏雄先生です
自然豊かな緑に包まれている吉祥寺
駒込吉祥寺は、1458年江戸城築城の際に、太田道灌が井戸の中から「吉祥」の文字が刻された金印を発見したことに始まります。この金印を瑞祥として、城内(現神田駿河台付近)に寺を建立しました
『八百屋お七』のお七・吉三の供養塔
ところが、1657年の明暦の大火にて吉祥寺は焼失してしまい、現在の駒込に寺を移動しました
駒込の吉祥寺 境内見学する麻生新庄会
榎本武揚のお墓です
えのもと たけあき
東京生まれ。幕臣、政治家。安政3年(1856)長崎海軍伝習所に入所。文久2年(1862)オランダ留学。明治元年(1868)海軍副総裁となる。
江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、函館五稜郭で官軍に抵抗するが降伏。黒田清隆
の庇護の下、北海道開発に従事。7年(1874)海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て第1次伊藤
内閣逓相に就任。黒田内閣農商務相・文相、第1次山県
内閣文相、第1次松方
内閣外相等を歴任した
こちらは、麻生ゆかりの佐藤男爵のお墓
順天堂病院を経営していた佐藤男爵家(日清日露戦争の功で爵位を賜った、東京陸軍病院長・陸軍軍医総監佐藤進氏)
順天堂三代堂主 佐藤進1875~1909
佐藤進は、弘化2年(1845)、太田村(現常陸太田市)の造酒屋高和家に生れました。
現在はヨネビシ醤油株式会社ココ
医学を目指し、慶応2年(1866)、下総(千葉)佐倉の順天堂・佐藤尚中の養子となりました教育者として後進の指導にも並みならぬ力を注ぎ、明治44年(1911)、出身地常陸太田の幼稚園増築に6,000円を寄付、現在の進徳幼稚園となりました
1869(明治2)年、明治政府の公式旅券第一号を得てドイツ・ベルリン大学へ留学・卒業。東洋人として初の医学博士の学位取得。
ウィーン大学で学んだビルロートの外科学を「外科通論」として紹介。わが国の西洋近代外科の基礎を築く。
順天堂医院第二代院長。
西南の役(明治10年)で陸軍軍医監として活躍。
1885(明治18)年、順天堂医事研究会を発足させる。
日清、日露戦争において陸軍軍医総監の任にあたる。
京城の大韓病院創設に尽力、初代院長。男爵。
広々とした佐藤家の墓地です
佐藤進男爵のお母さんは、行方市麻生の
高橋家(現在の高橋宏氏宅)
から常陸太田市に嫁ぎました
彼は高和家の跡取りでしたが,母親のたみが「進を医道に進ませたい」と強く望み,周りを説得して家業は進の姉に婿を迎えて継がせることになり,進は安政6年(1859),15歳の時に母に伴われて佐倉(現在の千葉県佐倉市)へ行き,順天堂主・佐藤尚中の門人となりました。ここでも進は,めきめき頭角を現し,慶応3年(1867),望まれて尚中の養子となりました。
母の故郷麻生を愛した佐藤進
佐藤進の妻 佐藤志津( さとう しづ 女子美術学校校長 )とともに、現在の羽黒山公園(別荘と呼ばれた)に女子美大の合宿所を設置し、行方地区の女子の芸術家の育成に貢献、その後は旧麻生町へ譲渡した
レキジョ
興奮
鳥居耀蔵、榎本武揚、川上眉山、二宮尊徳の墓、『八百屋お七』のお七・吉三の供養塔等広大な境内には、その他各界著名人と思しき大きな墓が多数見られました。
川上 眉山(かわかみ びざん、明治
2年3月5日
(1869年
4月16日
)- 明治
41年(1908年
)6月15日
)は、硯友社
の小説家。大阪生まれ。本名・亮。別号、煙波山人。帝国大学
文科大学中退。在学中から創作をし、明治23年(1890年)「墨染桜」で注目される。「書記官」、随筆「ふところ日記」などが代表作
新庄家は広大な墓地
その一角は、ひきとわ大きい墓石群が連立麻生藩歴代藩主が永眠している
約200坪の敷地があるだろうと思われる新庄家
その墓石の巨大さは、群を抜く大きさ
初代の新庄直頼(なおより)の墓石
と 植田先生
新庄氏は、行方郡のほかに鹿島郡や新治郡などに領地がありましたが、麻生を居所としたのは中世に麻生城が構築された要衝の地であり、琵琶湖を望む故郷近江国新庄の風景と重ね合わせてのかもしれません。
わかさぎを「公魚」と書くのは、霞ケ浦、北浦の一部を治めていた麻生藩が将軍家光公(徳川3代目)に治めたことから公儀御用の魚「公魚」と呼ばれ、この字があてられました
公方様が召し上がる魚の意味でこの麻生藩の献上が由来らしい
わかさぎを公魚と書くのは、
行方から始まったココ
霞ヶ浦名物のワカサギは、新庄直頼が国替えの際琵琶湖から持ち込んだとの伝承もあり、「公魚」と記するのは、三代藩主直好(なおよし)が竹串に刺した焼きワカサギを時の大老酒井忠勝を通じて三代将軍徳川家光に献上し、以後累代将軍家へ献上し公方様が召し上がったことからと伝えられています
先祖は藤原家の新庄家
幕末まで
麻生一万石を守り抜いた
吉祥寺近くの講談社のオブジェです
東京の文京区は、素敵な街