勇気も要らず・・・ | ボンさんの聖子さん日記

ボンさんの聖子さん日記

でもメインはオマケで~す。


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村下孝蔵

 『初恋』

を語ろう


『好きだよと言えずに 初恋は~』

誰もが青春時代を想い出す

あの子は、今どうしているだろうか



今週のディープ・ピープル

経田康×嶋田富士彦×沢田聖子



歌詞は実話だった


沢田 村下孝蔵さんが46歳の若さで亡くなられてから、16回目の命日を迎えます。当日の6月24日には、村下さんが青春期を過ごした広島など全国各地のラジオ局が追悼番組を放送し、数々の名曲が今に蘇ります。


経田 7月には追悼企画として生前の彼の唄声を収めた新アルバムも出る。もちろん、村下孝蔵を世に広く知らしめた『初恋』も収められています。


嶋田 『初恋』がシングル盤として発売されたのは'83年。53万枚も売れて最大のヒット曲となりました。三田寛子さんや玉置浩二さんら30人以上のアーティストにもカバーされている。不朽の名曲と呼んでもいいでしょう。


沢田 この曲は、村下さんが作った3曲を、Aメロはここ、Bメロはここ、サビはここと組み合わせてできたそうですよ。


嶋田 たしかに、歌のどの部分も印象に残る美しいメロディーです。


経田 新しさの中に、どこか懐かしい感じもありました。


沢田 大ヒットした理由は、世代や時代を超えて共感できる作品だったからではないでしょうか。


経田 ♪届かぬ想いを暖めていた・・・・・・という歌詞もそうだけど、誰でも々ような淡い初恋の経験がある。この曲は玉置さんら、村下さんとは違うタイプの歌手たちもカバーしましたが、皆、初恋の思い出は同じだと感じたのでしょう。


沢田 詞に美しい日本語が使われているのも村下さんの作品の特徴だと思います。


嶋田 特に『初恋』はそうですよね。


沢田 曲の冒頭からして♪五月雨(さみだれ)は~ですから。最近ではあまり使われなくなってしまった言葉です。若い人の中には「ごがつあめ」と読んでしまう人もいるかも。

 

経田 詞にはこだわっていましたよ。手で掴んだ雪が溶けてゆくまでをどう表現するかで、何時間も考えこんでいた。


嶋田 『初恋』の詞は、村下さんの中学時代の実体験に基づいて書かれています。飾らない性格の彼だからこそ、自分の初恋を包み隠さずストレートに表現できたのでしょう。


初恋の「君」との再会


沢田 私は今年、その中学校に行ってきました。


嶋田 熊本の水俣市立水俣第一中学ですね。


沢田 熊本で行われた村下さんの追悼コンサートに招かれた際、彼の幼なじみの方たちが案内してくれたんです。『初恋』には、♪放課後の校庭を走る君がいた、遠くで僕はいつでも君をさがしてたというフレーズがありますが、実際に村下さんが見つめていたのはテニスコートだったとか。彼の初恋の『君』はテニス部だったんです。


経田 実は、村下さんはその初恋の人とテレビ番組で再会を果たしているんだよ。スタジオで彼が『初恋』を歌っているといきなり彼女が現れた。番組が彼に内緒で招いていたのです。 そのとき、彼はすでに40歳を過ぎていましたが、照れに照れてた(笑)。大汗をかきながら歌い、放送が終わると「歌いきれるかどうかわからないほど緊張したよ」と話してました。


沢田 村下さんはこの『初恋』を、背水の陣の覚悟で作ったそうですね。生前ご本人から「つぎの曲が売れなかったら、もう次はないとレコード会社からほのめかされていたんだよ」とうかがいました。


嶋田 当時マネージャを務めていた僕は、そこまで強いことを言った記憶はありませんが、この曲を出した時点で彼はすでに30歳。相当の覚悟はあったでしょうね。まだ5枚目のシングルでしたが、彼のデビューは遅く、27歳でしたから。


沢田 きっかけは、CBSソニー(現・ソニーミュージック)のオーディションですか?


嶋田 そうです。オーディションは全国で行われ、村下さんは広島地区で合格した。当時の彼はピアノの調教師をしながら、アマチュアとして音楽活動をしていました。


経田 僕はデビュー直前の彼の歌とギターを聴いたときのことをよく覚えている。「まだアマチュアだけど、凄い男がいる」という噂を聞き、広島まで訪れました。 彼との待ち合わせ場所がスナックだったので、僕は少しお酒を飲んでいたのですが、目の前で彼がギターを弾きながら歌いだした途端、酔いが吹き飛びましたよ。それ以来、ギタリストとして、村下さんのコンサートやレコーディングをサポートするようになりました。

 

嶋田 村下さんの歌とギターのうまさは、オーディションの時点で誰もが認めていました。 ただ、20代半ばを過ぎていて、見た目も素朴というか、地味でしょう。そのため、最初は担当ディレクターが付かないのではないかと心配でした。歌手に容姿やキャラクターが重要視される時代になっていましたから。


沢田 たしかに、決して派手な歌手ではなかったけど、そんなところが逆に「親しみ」を持たれたのかもしれません。


嶋田 そうですね。当時、彼の魅力にいち早く気づき、担当ディレクターになったのが、浜田省吾さんらを担当していた須藤晃さんでした。後から聞いた話ですが、須藤さんは「自分の親が聴いても理解できるアーティストを手掛けてみたかった」と言っていたそうです。


沢田 私は'80年代後半から約10年にわたって村下さんとジョイントコンサートをやらせていただきましたが、村下さんはいつだって温かくて、優しくて「少年のような心」を持ち続けている方でした。 ジョイントコンサートのときの村下さんは、いつも本番前に「ちょっと散歩に行ってくるね」と出かけるんです。会場前で並んでいる彼のファンの前を歩いて、楽屋に戻ると「今日は誰も気づかなかったよ(笑)」と嬉しそうに話していました。


経田 茶目っ気たっぷりな人だったからね。


沢田 テレビ番組に出演するときも、局に一人で入るから、毎回、警備員に「一般の人は入れませんよ!」と止められてしまうらしく、それを楽しんでいたようです。


挫折も知ってた人


嶋田 髪型は七三分けでジャケット姿という地味な格好を好みましたからね。これは彼が子供のころから憧れていた加山雄三さんの影響です。


沢田 でも、普段は地味で目立たなくても、ひとたびギターを手に歌い始めたら、観客を一瞬にして村下孝蔵ワールドに引き込んでしまう。 『初恋』はカラオケで歌われることも多いようですが、実は難易度の高い曲ですよね。まず、高低の音域が広い。


経田 その上、息継ぎも難しい。♪好きだよと言えずに初恋は、と高音で歌ったところで一息入れてしまうと、♪ふりこ細工の心、と続けられなくなってしまう。


嶋田 でも、村下さんは見事に一気に歌う。


経田 学生時代、水泳部だったので肺活量が違うんですよ。しかも鎮西高校時代には中部九州大会の平泳ぎ100mで優勝したほど。卒業時に実業団の新日鐵八幡にスカウトされ、入社した。


嶋田 でも半年で退社。音楽への思いが捨てがたく、水泳から離れたのでしょうね。


経田 それもあるでしょうが、同年代のライバルでミュンヘン五輪の金メダリストでもある田口信教さんにどうしても勝てなかったからなんです。 「何回やっても彼には追いつかなかったよ」と話していました。 村下さんには潔さがあった。それと、物事についてどこか達観しているところがありました。 


嶋田 そうですね。ラジオや有線に『初恋』のリクエストが殺到し、レコードも売れて一躍ヒット歌手になったときも、村下さんは決して浮かれなかった。当時『ザ・ベストテン』から何度も出演依頼を受けましたが、すべて断っていました。過労で肝臓を壊していたことも理由ですが、「『初恋』一曲で自分への評価を決められてしまうことは嫌なんだ」とも言ってました。


経田 山の頂上に辿り着いても、そのスペースは狭く、やがて降りなくてはならないことを彼は悟っていた。それが彼の人生観だった。水泳における挫折以外にも苦労を強いられたからでしょう。


沢田 ご実家は映画館を何館も経営されていたんですよね。


経田 だけど、映画界の斜陽と軌を一にして閉館してしまった。その後、一家で移り住んだ広島でデザインの学校を出たああと、ピアノの調律師をしていたわけですが、これは食うための仕事だったとしか思えません。本当は早くからプロの歌手になりたかったはず。


沢田 村下さんの曲は情景が思い浮かびますが、それは生家が映画館だったことと関わりがある気がします。










経田 うん、映画は間違いなく影響している。彼がギターと音楽に興味を抱いたのも、加山さんの主演映画『エレキの若大将』('65年)を観たからでした。


沢田 ギタリストとしても超一流でしたよね。村下さんはベンチャーズの大ファンで、ステージで「一人ベンチャーズ」をやり、ファンを喜ばせていました。


嶋田 ベンチャーズは子供のころからの彼の趣味みたいなものだから。


沢田 地方へコンサートに行ったとき、ベンチャーズのファンが集まる店があると、必ず足を運んでいました。 打ち上げを終えると、みんなは寝ようとしているのに、村下さんは「僕はライブハウスに行ってくるね」って。自分のステージより嬉しそうでした。


経田 まさしく少年ですよね(笑)。


沢田 お店に行くと、飛び入りでギターを弾く。その上手さにお客さんたちは騒然となる。そして最後に「村下孝蔵です」と名乗ると、驚き混じりの歓声が上がる。「それが快感なんだ」と言っていました。


嶋田 本当に愛すべき男でしたね。ただ、それだけにラジオ番組などに出演させると、曲のイメージが壊れるんじゃないかと、少し心配になりましたよ。普段の言葉にはかなり強い熊本訛りがありましたからね。


経田 ところが本人は訛っているという意識がまったくなかった。「ワシも東京暮らしが長くなったから、東京弁になったろう?」と尋ねられたことがあるくらい(笑)。そもそも「ワシ」と言ってる時点で違うのに。


沢田 そんな村下さんがあんなに若くして亡くなるなんて・・・・・・。私はいまだに村下さあんの死が信じられないのでっす。経田さんは亡くなる直前まで村下さんと一緒だったんですよね。


経田 ええ。1週間後に控えていたコンサートのリハーサルをしていたところ、彼の様子がおかしいのに気付いた。1曲終わるたびに座り込んでしまう。 そのうち、正確なはずのギターのピッチが乱れ始めて、心配になって話しかけたところ、会話が噛み合わない。すぐ「頭だ」と気づき、病院に行ったのですが・・・・・・。


嶋田 高血圧性の脳内出血でした。今生きていたら、62歳。彼のことだから、きっと変わらず地に足の着いた音楽活動を続けていたでしょう。


沢田 新しい曲が出来ると、村下さんから電話があり、「良い曲が出来たんだよ」と声を弾ませていたことを思いだします。


経田 最後まで、好きな音楽を純粋な心でやり続けた。それが村下孝蔵の生き様だったんです。