雷鳴と共にあげた産声(うぶごえ) | ボンさんの聖子さん日記

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雷鳴と共にあげた産声


 昭和三七年三月一三日。

 東京は、早春の朝日がまだ眠そうに、そんな中で芳子さんは、二人目の子供を出産するべく夜明けから、“もう少し待って”と、お腹をさすりながら、話しかけていたのでした。

『せっかちな子は、損をするよ』と、

 芳子さんの説得のかいあって、午前九時まで待ったお腹の赤ちゃんは、タクシーに乗って、新宿区の聖母病院へ急ぎました。

 病院に着いた瞬間、“もう待てない!”とばかり騒ぎ立てること五分。今まで静かだった朝の太陽が、一天にわかにかき曇り、天から龍が舞い降りるかと思うほどのすさまじさ。とどろく雷鳴と共に“オギャー!!”と産声をあげたのでした。

 非常に元気の良い、女の赤ちゃん。

 手も足もプリプリ太っており、顔はといいますと、まったく起伏のない、オニギリをそのまま顔にしたような子でした。

 それでも親戚の人は、口々にこういったそうです。

『この子は大きくなったら、中村玉緒のような顔になるゾ』

 さて、子供が生まれたら、名前を考えなければなりません。芳子さんの頭の中に、ひとつの名前が浮かびあがっていました。

 しょうこーーー芳子さんがまだ、おさげ髪で女学校へ通っていたころ、とても憧れていた、ピアノのじょうずなお嬢さん。少女雑誌の口絵から抜け出たような、その人の名前が“ショーコ”だったのです。

 そして、そのころから“将来、私が結婚して、女の子を産んだなら、この名前をつけようーーー”と思っていたのでした。

 

 音楽の先生が敬虔(けいけん)なクリスチャンだった影響で、芳子さんは洗礼を受けてはいませんでしたが、少女のころから聖歌隊で歌っていたこともあり、聖母まりあのように、清らかで、心優しく、美しい女性(ひと)になって欲しいという願いを込めて、この赤ちゃんに“聖子(聖子)”と命名したのでありました。

 しかし、この世の中、思い通りにいかないもので、この赤ちゃん、名前通りに育ってはくれませんでした。



オマケ

デビューから約2年半が過ぎた、1982.11初版発行の

『少女期』

です。


水曜日は久し振りに徒歩通勤しました。

帰路は30分で歩けますが、往路が今回は最短記録でも31分と、なかなか壁は高いですねぇ。


昨日はいつもの山にまたまた登って来ました。

水分補給はこちら。




麓ではほとんど葉桜になっていますが、丁度満開でした。

来週の山開きにはもう散ってしまっているでしょうけど。





展望台からの景色もやはり霞んでいました。


去年出掛けたイベント、今年もと思っていたのですが、生憎の天気で断念しました。




今日はBORNの命日です。

一昨年の夏にファミリーで逢いに行っておいて良かったです。



清里の小須田牧場さんの敷地内には

『空を見上げて』

の歌詞を刻んだ歌碑があります。

その時の行動記録は 

  ↓

 こちら