大岡昇平全集 20。
「文学的ソヴィエト紀行」の中の一文。コーカサス山脈を越えて、オルジョニキーゼに向かう。
この辺はロシア語にも非ず、コーカサス語にもあらず、スキタイ語を元とするアセテヤ語という特殊な言語を話し、やはり文学を持っている。ソ連を構成する少数民族の数多く、それぞれ固有の文学を持っているのに驚く。
まず、「やはり文学を持っている」の「やはり」が私は好きだ。ここに大岡昇平がいる。「やはり」のあとには「私(大岡)が思っていたとおり」ということばが省略されている。そして、「私(大岡)が思っていたとおり」であるにもかかわらず、大岡は「驚く」。「少数民族の数多く、それぞれ固有の文学を持っているのに驚く」と書かずにいられない。
この「驚く」は、単純な「驚く」ではない。
目の前で風船が破裂したときの「驚く」ではない。突然、水をかけられたときの「驚く」でもない。とても感激したときの「驚く」である。「感激した」あるいは「感心した」というような冷静なことばを否定して、ことばにならないものがあらわれる「驚く」である。ことばより先に「肉体」が反応してしまう。
それは、さきの「やはり、思っていたとおり」と結びつけると、「喜び/歓喜」と言い換えてもいいだろう。思っていたとおり、自分の予想どおりのものを「発見」する喜びである。コロンブスが、アメリカに到着したときの「喜び」が、これに似ているかもしれない。「私の確信は正しかった」という「喜び」である。肉体の奥からこみあげてくる「喜び」である。
私が大岡昇平が好きな理由は、こういう「文章/文体」に出会えるからである。
ここには、大岡昇平の哲学がある。どんな人間でも、考えを持っている。だれでも考える。そして、考えるとき、ひとは「ことば」をつかう「ことば」なしでは考えることができない。そして、「ことば」を正直に動かせば、つまりあるひとが正直に考えれば、それをことばにすれば、それは必ず文学になる、という確信が、大岡にはある。
私は、その大岡の確信に引きつけられるのである。
ひとはある「事実」にであったとき、それをどう語るか。大岡は「驚く」と書いている。私はそれを「喜び/歓喜」と書き換えてみた。書き換えることで、大岡と向き合ってみた。大岡と私のことばは違う。しかし、共通しているところもあるはずだ。共通しているけれど違う、違うけれども共通している。これを発見するのが文学、ことばを読む楽しさである。