池田清子「エピソード・イケダサン」ほか | 詩はどこにあるか

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池田清子「エピソード・イケダサン」ほか(朝日カルチャーセンター、2026年03月02日)

 受講生の作品。自己紹介(だれを紹介してもいいが、そのひとになって紹介する)をテーマに詩を書いた。だれのことを書いているか、受講生に想像してもらいながら読んだ。

エピソード・イケダサン  池田清子

バーベキューの時
ピーマンを切る係だった
「イケダさんらしい」
と 言われた

知り合いの家で
「リンゴをむいて」
と 言われたので
何個かむいた
「お母さんから何も言われなかった?」
と 言われた

集会所で
料理をする機会があり
人参担当を申し出た
皮むき器があったので
「もっと早く!」
と 言われた

 具体的な指摘(?)は、最終連の「もっと早く!」だけである。しかし、何を言われたかがわかる。なんといっても「イケダさんらしい」の完全省略がおもしろい。そう言われたとき、あるいはそう言ったとき、そこにいるひとはすべて「イケダサン」がどういうひとであるか知っている。
 その「誰もが知っているイケダさん」を、他人のことばをそのまま借りてきて「自己紹介」にかえているところが、とてもいい。
 語らないことによって語る。
 間違いなく、ここには仲間たちによって「共有」された「イケダサン」がいる。それは、どんなに「いや、私はそういう人間ではないのです」と言っても通じない。そういう「ゆるぎない」人間である。
 それを受け入れているのが「イケダさんらしい」。



すめろきのくにに     青柳俊哉
 
ゼウスのくににわたしはうまれた
いま、すめろきの国にすむ
 
天雲の八重をかきわけて
瑞穂のくにのしんじこにめぐりおりる
 
朝に、このみずうみからしじみをとるおんなのうたがきこえる
夕に、このみずうみにしずむ太陽へおんなはいのる
 
めのふじゆうなわたしをおんなは世話した
杵築の神のゆるしをえてわたしたちは契りをむすぶ
 
鈴虫のねをあいし、筍と蓮根の朝げをあいし、
竹の筒につばきをかざるつまをわたしはあいした
 
まいよ蓬莱のはなしをするつまと くろい星亀にのって
西海にあるという神の島にわたしはいきたい

 これは、だれの「自己紹介」か。いろいろなヒントがあるが、「天雲の八重をかきわけて/瑞穂のくにのしんじこにめぐりおりる」がいちばんわかりやすいか。「しんじこ」は「宍道湖」である。
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。
 人物当てよりも、ひらがながつくりだすイメージの揺らぎの方が「謎」めいている。とくに、「竹の筒につばきをかざるつまをわたしはあいした」の音がおもしろい。「このみずうみからしじみをとるおんなのうたがきこえる」も、目で読むだけではなく、声に出して読みたい感じが強い。ラフカディオ・ハーンの文体を私は知らないのだが、「語り」というところから、ハーンに迫っていくという試みがあったら、もっとおもしろくなると思う。



自己紹介〜医療について思うこと〜.  堤隆夫
  
決して忘れることのできない、
慈しみの愛の言葉だった。

「今まで本当に大変な思いで、がんばってこられたんですね。
ご苦労なさったんですね。
これから、一緒にがんばっていきましょうね」
ある医師の言葉だった。

がんを発症してからというもの、
選択肢に戸惑いながら、
藁をもすがる思いで、
医師の診察を受けてきた。

しかし、そのような慈愛に満ちた言葉を受けたのは、
初めてであった。

涙ぐむわたしに、医師はそっとティッシュの箱を差し出した。
わたしはその時、、全身で思い知った。

どんな時でも、医療とは希望を語ることだということを。

 二連目のことばは、堤が聞いた「ある医師の言葉」なのだが、それが「自分のことば」になるというのが堤の「人柄」なのだと思う。
 この詩ではないが、別の作品でも、「あなたのことば」と「わたしのことば」が交錯し、「だれのことば」と限定しなくていいというか、むしろ特定しないことによって世界が広がる詩を堤は書くが、今回の詩も、「ある医師のことば」が「堤のことば」となり、聞くひとから「語るひと」にかわるのが興味深い。
 他人を語ることが、自分を語ること、自己紹介になるというのがおもしろい。
 池田の詩の、他者と自己の関係の、裏返しのような感じがする。