池田清子「遊ぼ」ほか | 詩はどこにあるか

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池田清子「遊ぼ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年12月15日)

 受講生の作品ほか。

遊ぼ  池田清子

ねえ モーグリ
遊ぼう シーアカーンも一緒に
ねえ セドリック
遊ぼう 痛風のおじいさん伯爵も一緒に
馬に乗ってきて

コゼット
ジャン・ヴァルジャン ジャベール

エドモン・ダンテス
復讐はもう終わったから

あ、忘れてた 大好きな
アルセーヌ・ルパンも
きれいなご婦人と一緒に

みんなで遊ぼう
ただただ 遊ぼ

 「遊ぼう」の呼びかけが、最後に「遊ぼ」に変わる。この変化を、どうとらえるか。私には「遊ぼう」よりも「遊ぼ」の方が軽い感じがする。より口語的な感じがする。ああ、いつも、こんなふうに遊んでいるのだなあ。遊ぶことが「生きる」ということそのものになっているのだなあ、と感じる。相手に対する「親密感」が強いと思う。
 「痛風のおじいさん伯爵」のような、「遊ぶ」という世界を一瞬、異化することばがもう少しあってもいいのでは、と思う。遊びではなく、遊んでいるひとの「個性」が遊びを中断させる瞬間があってもいいと思う。中断の一瞬、いったいどんな遊びがあるかなあ、と考える。そうすると、もっと詩の世界に誘い込まれると思う。



テッサリア  青柳俊哉
 
柿の霜がふかくなった 
霊的なものがふかくなった
 
天国のテッサリアの丘と丘のあいだ
雷のようにおとこが闊歩する
 
裸に鎧の黄金を着て
アポロンとはなしながら大股であゆんでいく
 
いちめんの霜をとかす雷雨と太陽
 
ぱっとひかる玉葱の葉
かりんの実が黄金をともす
 
氷をしきつめてかがやいている空と空のあいだ
雷道を太陽があゆんでいった
 
おとこは饒舌にはなしつづけた

 「中断」のつづき。青柳のこの作品では、「ぱっとひかる玉葱の葉」という一行がとてもおもしろい。「ぱっ」のなかには音と動きがある。それが「玉葱の葉」と結びついて、何か強烈なもの(個性)が立ち上がってくる。「緑の玉葱の葉」とか「細い玉葱の葉」ではなく、「ぱっとひかる」玉葱の葉。「かりんの実が黄金をともす」の「ともす」もいい。何かが動いている感じがする。
 それが「氷をしきつめてかがやいている空と空のあいだ」ということばへと変化していく。「ぱっとひかる」「(灯を)ともす」「かがやいている」ということばの呼応もあって、世界が「近景/中景/遠景」のように立体感をもってあらわれてくる。



かなしみのひとひら  堤隆夫

暗い空から 絶え間なく散ってくる
雪のひとひらは
あの人のかなしい純血の象徴

雪解け水が流れるとき
涙の雪の結晶も
かなしみと一緒に流してしまおう

ひとひらの現し世だけど
生き存えることが あなたへの愛だと言っていたのに
春の桜を見る前に 逝ってしまうなんて 

がん病院からの桜道
永遠桜のひとひらを胸に秘めて
ふたりでどこまでも 歩いて行こう
こころはどこまでも 歩いていける
こころはなんどでも 生まれ変われる

からだは裏切っても
こころは決して裏切らないよ
こんなにもやさしい言の葉のひとひらを

 後半の「ふたりでどこまでも 歩いて行こう/こころはどこまでも 歩いていける/こころはなんどでも 生まれ変われる」は誰のことばだろうか。堤のことばか。あの人(あなた)のことばか。さらに「からだは裏切っても/こころは決して裏切らないよ」はどうか。堤のことばか、あなたのことばか。
 どちらでもいいだろう。区別する必要はない。それはふたりによって共有されたことばである。ことばのなかで、ふたりはひとりになる。「裏切る」は「切断」であるのに対し、こころ、ことばは逆に「結びつける」ものとしてある。先に「共有」と書いたが、「共有」を超えて、「融合」する。「結びつける」を超えて、「融合」する。