こわい話(その3) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 トランプが高市と電話会談した。そのときトランプが高市に、台湾問題をめぐって高市氏に中国を刺激しないよう「助言」。あるいは「要求」した。報道によって分かれてる。
一方、官房長官は「助言」を否定した。その上で「ウォール・ストリート・ジャーナルに、そのような事実はない」と抗議したという。
 で、この問題をめぐって、高市支持派は、「助言」と報道した朝日新聞に、記事の撤回だか、訂正を求めて騒いでいる。

 電話会談に、だれが「同席(通訳?)」したのか知らないが、こういう「外交上の文言」は微妙であり、どちらが正しいと言ってみたって、簡単には決着がつかない。
 簡単に言いなおせば、台湾問題をめぐって、トランプが高市に「中国を刺激しないように」と言ったとする。それは「助言」か、「要求」か。トランプが「助言する」と言ったか、「要求する」と言ったか、そのことばをつかわなかったか。つかわなくても、「助言」のときもあれば、「要求」のときもある。これは、受け取り方にもよる。
 外交問題は、ふつうの人間には、ややこしすぎるから、例を簡単にしてみる。
 遅刻を繰りかえしている社員がいる。その社員に「一列車、早い便に乗るように」と言ったとする。「助言する」とも「要求する」とも言わない。そのとき、あなたが社員だったら、どう受け取るか。
 「助言」か、「要求」か。
 もしかすると、それは「命令」かもしれない。
 私なら、「助言」でも「要求」でもなく、「命令」と受け止める。

 で。
 先の、トランプ・高市会談。ほんとうは「命令」したのかもしれない。なんとなれば、トランプは、来年4月に訪中し、習近平と会談することになっている。高市が余分なことを言って、中国とアメリカの関係がこじれてしまうと、何にもならない。
 で。
 ウォール・ストリート・ジャーナルが「助言」ということばをつかったのは、(原文を読んでいないのでわからないが)、もしかすると「命令した」というのが事実であったかもしれないけれど、それでは高市がトランプの「部下」になってしまうので、高市をかわいそうに思い、配慮して「助言」にしたのかもしれない。

 先の遅刻社員の例に戻って言えば、同僚に「さっき、部長に何といわれた?」と聞かれたら、私は「部長に、遅刻のことで注意された」と答えるかもしれないし、「叱られた」と答えるかもしれない。「命令された」と答えると、なんだか自分が惨めになるからね。部長だって、他の社員に「ちょっと苦情を言っただけだよ」と言うかもしれない。命令したと言えば、いろいろ問題になるかもしれないからね。

 大事なのは、あることばを「どう受け止めるか」。
 「助言」か「要求」か「命令」か「注意」か、あるいは「叱責」か。
 マスコミの報道によって「助言」「要求」と表現が分かれているとしたら、それは「受け止め方」の問題であって、「中国を刺激しないように」と言ったことだけは「事実」だろうなあ。
 これは「新約聖書」に通じる問題。使途の言うこと(証言)が微妙に違う。それは逆に、神はともかく、キリストは存在したということを証明する。違いがあるのは、そこにそれを目撃したときの、それぞれの「ニュアンス」が入るからである。違いがあって、あたりまえ。
 
 ついでに書いておくと、トランプは正確には「中国を刺激しないように」という表現をつかわなかったかもしれない。一言一句が、そのままではないかもしれない。しかし、その「意味」のことを言ったかもしれない。それを、トランプの側近が、わかりやすい形でウォール・ストリート・ジャーナルに語った(リークした)のかもしれない。こんなことは、会談(会話)ではよくあることである。
 そういうことを理解し、「ことば」ではなく、コンテキスト(状況)を理解することが重要なのだが、いまは、このコンテキストを理解する力が、多くのひとの間で非常に低下している。
 これは、ほんとうにこわいことである。

 で、私なんかは、トランプは高市に「命令した」と思うなあ。私が高市の立場だったら「命令された」と思うなあ。それを言うのが、高市は恥ずかしいから、口をつぐんでいる。
 高市は、不都合なことは「言わない」、質問されたら「答えない」。「そんなことより、ほかの話をしましょう」という人間である。野田との党首討論でも、そういう「論法」をつかった。これが、高市の「本質」だろうと、私は思う。