大森立嗣監督「おーい、応為」(★★)(2025年10月18日、KBCシネマ、スクリーン2)
監督 大森立嗣 出演 長澤まさみ、永瀬正敏
葛飾北斎と娘、といえば「北斎漫画」(新藤兼人監督、緒形拳、田中裕子)である。私は映画を見ながら、長澤まさみではなく、田中裕子だったら、この映画はどうなっただろう、ということ以外は何も考えなかった(感じなかった)と言えば、ひとつだけ、嘘をついたことになる。ぜんぜんおもしろくない映画なのだが、一か所だけすばらしいシーンがある。
長澤まさみ、永瀬正敏の旅の途中の富士の映像。ふもとから、稜線をたどるようにカメラが動いていく。頂上までのぼって、下る。全部下るのではなく、頂上から少し下ったところで、カメラは稜線をたどるのをやめる。山の形が消え、「虚空」が映し出される。あ、これこそが北斎の見た風景だと直覚する。その瞬間、私は、富嶽百景の、いくつもの絵を思い出した。富嶽百景は、すばらしい絵だと、あらためて思った。
しかし、そのほかのシーンは目も当てられない。
犬が紙の上を歩き、紙を汚す。その汚れを利用して桜の絵にする。これは、犬が紙の上を歩いたときから想像できる「予定調和」。犬の肉球、花びらというのは、誰にだって思いつく。北斎の「個性」ではないだろう。あくどい。
何がおもしろくないかと言って、大森立嗣、長澤まさみ、永瀬正敏の誰でもいいのだが、いったい彼らは北斎が好きなのか。北斎のどこが好きなのか。それがぜんぜんわからない。絵を描くことをなぜやめられないのか、そのことが直覚できない。もし北斎が好きな人間が、この映画の関係者の中にいるとしたら、ある富士の姿をとらえたカメラマン辻智彦だけだろう。
「国宝」の、吉沢亮が襦袢姿で屋上で踊るシーンと比較すればわかる。あのシーンには、主人公が「歌舞伎」に肉体を乗っ取られた人間の絶望と愉悦がある。何かを好きになる、それなしでは生きていけないというのは、肉体が勝手に動いてしまうということである。そして、そのシーンを、カメラはしっかりととらえていた。日が沈むにしたがって色が変わる空気さえ、吉沢亮によっていのちを吹き込まれたもののように見えた。
長澤まさみがろうそくに手をかざし、そのときの指のまわりの光と影にひきこまれ、そこから遊廓の飾り窓(?)の絵を思いつくところに、そういう肉体のおもしろさが少しだけ出ているが、肝心の絵を描くシーンがつまらない。長澤まさみは、この映画に出るに当たって、吉沢亮が一年半歌舞伎の踊りの練習をしたように、いったいどれくらい練習したのか。吉沢亮が即興で踊るような迫力が、まったくない。長澤まさみは絵を描くことが好きではないのだろう。お栄が、どんなふうに絵が好きか、ぜんぜん理解していないのだろう。絵は、手と目だけで描くのではないのだ。(たとえば、「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンは友人のサインを偽造するために、プロジェクターを利用し、「全身」に手の動きを覚えさせていた。サインを書くだけでも、人間は肉体全部をつかっている。)
「北斎漫画」で田中裕子が演じたのは絵を描くお栄ではなく、父のことが大好きな少女だが、生きている人間を感じさせた。何が起きているのかわからないが、何か自分では説明できないことを「わかっている」感じがよかった。お栄を見るというよりも、田中裕子を見る感じ、田中裕子は田中裕子をみせていた。開き直っていた。何かを一生懸命にやっているひとが好き、という感じを、田中裕子をみせることで生き抜いていた、と思う。そこには田中裕子という「全身(肉体全部)」があった。