「遠い山なみの光」に文句を書いた。では、どう撮るべきだったのか。私がカメラマンなら、という案をひとつ書いてみる。
そのまえに。
カズオ・イシグロの小説のテーマは(私は本を読んでいないので、この映画から判断した小説のテーマは、という意味になるが)、「嘘」である。
ひとは、嘘をつく。そして、それは他人をだますと同時に自分をだます。「嘘」を最初に信じるのは他人ではなく、自分である。そして、嘘というのは全くの虚構ではつづけることができない。どこかにほんとうのことを含まないと、ことばがつづかない。嘘がつづかなくなったとき、ほんとうに立ち返り、そこからもう一度ことばを動かす。そうすることで嘘は完璧になる。つまり、自在になる。(このことを描いてみせたのが、「ユージュアル・サスペクト」である。ケビン・スペーシーは取調室、刑事の部屋の壁にあるポスターやその他のものを利用しながら、それを踏まえて嘘をつきつづけた。頼れる「事実」があるから、嘘に矛盾が生まれない。)
そして、これは逆なこともいえる。つまり、嘘に嘘を積み重ねていくとき、ひとは「事実」を手放すことはできないのだが、それは嘘の踏み台になりながら、最後は「真実」として嘘を突き破ってあらわれる。これは、多くの小説が実証してみせている。小説に書かれていることは事実ではない、虚構である。簡単にいえば嘘である。しかし、それを支えつづける人間の「真実」があるから、読者は、表面の嘘ではなく、奥に隠れていた「真実」に触れて、感動する。
「遠い山なみの光」も、そういう構造になっているはずである。(映画から推測する限りは。)
この映画のカメラ(撮影)が失敗しているのは、こうした嘘の構造を理解していないからである。
この映画の主人公は、実はひとりである。過去に登場するふたりは、一方が嘘である。ひとりの女が認識し、同時に夢見ている世界。それを撮影するとき、スクリーンに二人の女が存在してはいけない。いや、存在させないと映画にならないのだが、存在のさせ方に問題がある。嘘の本質をつかんでいない。
ふたりが登場するとき、ふたりの顔が(あるいは正面の姿が)同時に存在してはならない。片方は「背中」(あるいは一部)として存在するように撮影すれば、映画はまったく違ったものになっただろう。ひとりがもうひとりを見ている。対話している。そのとき、そのどちらかひとりの背後から、もうひとりの顔(正面)をとらえる。つねに、これは一方から他方を見た姿(世界)だと意識できるように画面(映像)をつくっていけば、きっと小説の「文体」に近くなる。(カズオ・イシグロの小説を読まないで、推測で書いているのだから違っているかもしれないが。)
ふたりにとって、一方は嘘なのだけれど、嘘でありながらこころのほんとうの姿でもある。ありたい姿でもある。あるときは上品に、あるときは乱暴に、しかし生命力があって……。人間は多面的な存在だから、矛盾したもの、矛盾そのものが「真実」なのである。それを矛盾のまま描き出すには、常に「影」が「理想」を侵す形で侵入してくる映像スタイルが必要なのである。同時に、「理想」が「現実の影」を侵しながら動くというスタイルが。
繰りかえされる蔦のシーンも、カメラは後ろから足に絡みつく映像として表現しているが、あれでは「客観的」すぎる。逆に前から撮影すると印象は全然違うはずである。走っている女には、何かが足に絡みついてくる、その存在が蔦として明確に映像化されるではなく、わからないものでなくてはならない。目には見えない。しかし、足には見える。そういう感じを観客に与えるためには、蔦がからんで足が乱れるときの、その足先そのものが大事なのである。観客は、女の足の動きから蔦がからんでいることを知る。そして、その足が感じている苦しさから、たとえば娘を絞殺するということを思いつく。してはいけないことを、思いついてしまう。そういうせつなさを、観客にわからせるように撮らないといけない。後ろからでは、足に絡む蔦の動きはわかるが、それと戦っている女の足のせつなさ、肉体のせつなさが半減する。(それよりもっとまずい「種明かし」になっているかもしれない。私は「種明かし」が大嫌いである。こういうものは「伏線」とは言わない。)
この映画は、簡単にいいなおせば、カズオ・イシグロが「文体」を発見することで小説にしているのに対し、カメラは「カメラ文体」を発見しないまま、小説をなぞっているということである。
だから、私は、こんなものは映画ではないというのである。
ストーリーだとか、ことば(せりふ)を味わうのだったら、わざわざ映画館に行かなくてもいい。むしろ、家で、本を読む方がいいに決まっている。