ウォルター・サレス監督「アイム・スティル・ヒア」(★★★★+★★★) | 詩はどこにあるか

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ウォルター・サレス監督「アイム・スティル・ヒア」(★★★★+★★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2025年08月09日)

監督 ウォルター・サレス 出演 フェルナンダ・トーレス、セルトン・メロ

 この映画の恐ろしいところは、確認したこと以外は映像にしない、という点に徹底していることだ。つまり、ドキュメントに徹底している。そのために、逆に、描かれていないことが、ひしひしと、不気味に迫ってくる。この緊迫感をフェルナンダ・トーレスは、感情を押し殺すように表現している。彼女が感情を押し殺さなければならない理由は、ふたつある。ひとつは自分のいのちが危ない。もうひとつは、家族を守りたい。そして、彼女の場合、後者が優先する。
 1970年代のブラジル。夫(父親)が軍事政権に連行される。こどもが5人いる。いちばん上は大学生。いちばん下は小学生か、あるいは小学校に入ってもいないか。おとなは軍事政権の意味も、連行の意味も、つまり社会で起きていることが理解できる。大学生の長女、次のたぶん高校生らしい二女も理解できる。しかし、それ以外の三人は、どうか。もし彼女が家族と一緒にいられない場合、彼らはどうやって生きることができるか。夫の行方を探しながら、そして軍警察の追及をかわしながらこどもを守る。これは、口で言うのは簡単だが、現実にはむずかしい。周囲のひとが同じように軍事政権に怯えているからなおさらである。市民が団結して軍事政権に立ち向かう、というようなことは、「ことば」では言えても実行はできない。この、怒りと不安を、あふれさせないようにして、静かに、しかし確実に表現する。
 これは、すごいとしか言いようがない。
 カメラも、映像(アクション)がおおげさにならないように、とても抑制的に動く。それは、ときどき挿入される家族フィルムとの対比で強烈になる。長女(だったと思う)が家族の楽しい日常を8ミリカメラ(だと思う)で撮っている。それは、ある意味では素人の撮ったドキュメントということができるのだが、そのいちばんの特徴は緊迫感がないということである。「音」はないのだが、はじける笑い声がきこえることである。もし、そこにけんかなどの「闘い」が描かれていたとしても、そこには緊迫感はない。父親(夫)の連行、母親(妻)の尋問に具体的な暴力(闘争)描写がなくても、非常に緊迫しているのと大違いである。
 家族ムービーを挿入することによって、この映画は、より完成度が高くなっているのである。
 ところで。
 最初に、「確認したこと以外は映像にしない」と書いたのだが。それには、理由がある。1970年代のブラジル(だけではなく、南米全体だが)の軍事政権による「共産主義者(社会主義者)弾圧は、ほんとうに軍事政権だけの力で実行されたことなのか。多くのひとがアメリカの政権、CIAの関与を指摘している。「モーターサイクル・ダイアリーズ」でチェ・ゲバラを描いたくらいだから、ウォルター・サレス監督は、こうした事情を知っているはずである。そして、そのことについて怒りを持っているはずでもある。しかし、それを毫も表現しない。なぜか。フェルナンダ・トーレスを中心にした「家族」の視点で、実際に起きたことを表現したかったからであろう。妻(母親)は軍事政権が夫を連行していったこと、そして行方不明になっていること(たぶん殺されたこと)を知っている。しかし、当時はCIAの関与までは想像できなかったかもしれない。そこまで意識を展開できなかったかもしれない。あくまで、当時、彼女が見たこと(体験したこと)、そして考えたことを、そのまま映像にしようとしたのである。
 それにしても。
 夫の死亡を、死亡証明書(通知?)で確認する、そのときの妻の笑顔の、なんと生き生きしていることか。夫が生きていたこと、それを「証明する」のが死亡証明書なのだ。もし、死亡証明書がなければ、夫が存在したことを証明できない。死亡証明書があって、はじめて「死因」を追及できる。彼女にとって「死亡証明書」は「闘い」の出発点なのである。
 夫(父親)を連行された家族、夫(父親)の行方不明と向き合う「被害者家族」の写真を撮られるときも、彼女は「笑顔」にこだわる。悲しい顔をしたくない。この笑顔の家庭を壊したのはだれか、という追及ができなくなる。彼女は単に夫を、父親を取り戻したいだけではない。そういう「仕事」をした「政府」を追及したいのである。そういうことが二度と起きないようにするために。
 そういう祈りが、「事件後」を延々と、現代まで描くところにあらわれている。家族ムービー、家族写真にこだわっているところに折り込んでいる。「歴史」は、けっして終わらない。それにゆえに、この映画はつくられている。(きょうは「長崎原爆の日」でもあ。「歴史」は終わらせてはいけない。語り継がなければならない、とあらためて思った。)

 ★★★★+★★★の追加した黒星は、もちろんフェルナンダ・トーレスの演技ゆえなのだが、ウォルター・サレス監督の徹底ぶりにもとても感心した。