アレハンドロ・ロハス、フアン・セバスティアン・バスケス監督「入国審査」(★★★★)(2025年08月01日、KBCシネマ、スクリーン1)
監督・脚本 アレハンドロ・ロハス、フアン・セバスティアン・バスケス 撮影 フアン・セバスティアン・バスケス 出演 アルベルト・アンマン、ブルーナ・クッシ
映画が終わった瞬間、「えっ、これでおわり?」と思う。その感じをブルーナ・クッシの顔が、そのまま語る。彼女は何も言わない。しかし、「えっ、これでおわり? いったい、いままでしてきたことはなんだったの?」。観客は、みんな、そう思うはずである。いや、こんなことを期待してはいけないのだけれど、ああ、あの二人は、もっともっと質問責めにあって、もしかすると裁判もあって、その前には「不法入国」の罪で「国外追放(強制送還)」というようなトラブルもあって……と、不幸な「つづき」を期待するだろう。それが映画というものだから。フィクションは何も「ハッピーエンド」を見るためのものではないからね。「悲劇」は昔からひとの心を揺さぶる。
で、最初にもどって。といっても、最初には、私は何も書いていないけれど。
「入国審査」はタイトルどおり、アメリカでの「入国審査」を描いている。登場人物は、厳密に言えば何人かいるが、「基本」は四人。入国しようとするカップルと、審査するふたり。場所も「入国審査室」(で、いいのかな?)。限定されている。
舞台劇でも医院じゃないかなあ。
予告編を見たとき、私は一瞬そう思ったのだけれど、いや、何かが違うぞ、とも思った。その「何かが違うぞ」が映画を見てわかった。これは、「舞台」では不可能。いや、舞台でも可能かもしれないが、映画の方がはるかに効果的である。脚本もいいが、撮影もとてもすばらしい。
何が映画的か。何が、舞台と違うか。
先に書いたように、この映画の登場人物、その「場」は限定されている。これを逆手にとって、映画は(撮影は)、四人、入国審査室以外を「排除」しているのである。あの広い空港も、映し出されるのは「入国審査」を待つひとの列(それも列そのものは映さない。二人の周辺だけである)だけであると言っていい。男が入国するときの「申告書」をなくし、「用紙ならあそこにある」と列の前の男が教えるが、その「あそこ」が列からどれくらい離れているかも映画は映してみせない。カメラが映し出すのは、ほとんど主人公二人の周辺二、三メートルくらいである。唯一の例外は、スペイン(バルセローナ)から離陸する飛行機の機体である。徹底している。そして、その「排除」をより強烈に印象づけるのが、なんと、入国審査室の周辺でおこなわれている電気工事(配線工事?)の騒音の侵入、突然の停電というハプニング。つまり、いつでもどこでも「排除」できないものがある、侵入してくるものがあることを強調することで、よりいっそう「排除」を明確にする。
この映画自体が、入国する二人を「排除」する方向で動いている。二人は「排除」されないように、懸命に「弁明」する。当然、審査官の質問は、二人のあいだから「愛」を「排除」し、「入国」が不法であると断定する方向へ動く。これが、またまた、おもしろい。だれにでも秘密はある。それは、ときには相手への「裏切り」でもある。その「裏切り」を排除し、そのことによって二人の「愛」さえも「排除」しようとする。「おまえたちは、愛し合ってなどいない。その愛は虚構だ。虚構の愛をアメリカは受け入れない」というのが審査官の主張のように見える。
このときの、カップルの表情の揺れ。それを角度を変えながら、カメラは鮮明に浮かび上がらせる。冒頭に書いた、女のえっ、これでおわり?」と同じように、女は声には出さないが、「えっ、あなたは私に嘘をついていたの? 私を利用しているだけなの?」といっている、その「こころの声」を映し出す。男の「いや、これには事情があって。でも、ほんとうに愛しているのはきみだけだよ」という嘘かほんとうかわからない「こころの声」を映し出す。彼らがふたり一緒ではなく、ひとりずつ尋問されるときも同じである。表情のなかに、いまは隣にいない相手の反応を想像し、自問する(反省する)苦悩が揺れ動く。これは、舞台では見えない。わからない。映画の「アップ」(顔のアップ)によって、はじめて見えてくるものである。映画出なければならない理由が、ここにある。
これをさらにおもしろくしているのが審査官のふたりである。彼らは、二人が「不法入国」しようとしていると疑っているか、それとも単に、事務手続きの一環として、感情を「排除」して質問しているか、これがわからないことである。二人から見れば、厳しい質問である。観客も、あっ、厳しいなあと思う。しかし、そう思わせるものでなければ「審査」ではないだろう。言い換えると。ここでは、審査官二人の「真意(というか、感情)」が「排除」されている。
ついでに書いておけば、一人ずつ尋問するシーン、男を尋問するときの審査官(男女)のすわる位置が、女を尋問するときでは左右が逆になる。理由は説明されないが、これもどうしてなんだろうという疑問を引き起こして、おもしろい。余分なことは、説明しない。
この映画が描いているのは、主役二人の感情の「揺れ」だけなのである。それに限定しているのである。それ以外を「排除」しているのである。これができるのは「カメラ」にフレームがあるからである。映画の観客は、よそ見ができないのである。舞台なら、役者が視線を動かした瞬間、腕はどう動いたか、足はどう動いたかがわかり、そこから「感情」を探ることもできる。しかし、「カメラ」のフレームが視線の動きしかとらえていなかったら、観客はそれを見るしかない。ほかのものは「排除」されているのだ。
「排除」の構造が、この映画に緊迫感を与えているのである。カメラワークは、それを深いところから支えている。スタッフの「撮影」を冒頭に紹介しているのは、そのためである。ふつうは監督の名前しか紹介しない。
そして、この緊迫感が持続しているからこそ、映画が終わった瞬間、「えっ、これでおわり?」と思うのである。この驚きを体験するためだけのためでも、この映画を見る価値がある。傑作である。
余談だが。
映画のなかで、審査官が、セックスは何回するか、と質問する。男は「週に二回」と答え、女は「季節によって違う」と答える。これを見ながら、私はウディ・アレンの「アニー・ホール」を思い出した。セラピストに対して、ウディ・アレンが「二日に一回。少ないんだ」と言い、一方のダイアン・キートンが「週に三回、とても多いの」と訴える。思わず、笑いだしてしまうのだが、アメリカでは、これは日常的な質問なのだろうか。「アニー・ホール」はそれぞれ自ら語るのだが、入国審査の係員は質問している。もしかすると、この映画は、そういう「礼儀の排除」というアメリカの姿勢に抗議しているのかもしれない。