細田傳造「しょうらいのゆめ」ほか(「ウルトラ・バルズ」43、2025年06月01日発行)
細田傳造「しょうらいのゆめ」の一連目。
することがある
弁当を買いに出る
暑さの町をほろほろ歩き
路上に口論殴り合いを探す
(遭遇皆無)
人と争わないのは
詰まらないからやめなさい
電信柱に云う
これは最終連(四連目)につながっていくのだが、そういう「構造」をとおりこして、「電信柱」が「もの(実在)」として浮かび上がってくるところがいい。
三連目。
することがある
自治会報高齢者通知欄に
小生の『しょうらいのゆめ』という
文学作品載せるべし
自治会長の家の玄関で云う
(厳然通告)
はあという生返事
煮えきらない男だ
「自治会長」が、浮かび上がってくる。そして、その浮かび上がり方というのは、細田の描写というよりも、読者が「生返事/煮えきらない」ということばの印象から具体化するという不思議な構造をもっている。
細田には、何か、読者に対する信頼というものがある。あるいは「世間」というものに対する信頼がある。そして、それは同時に「世間」から「浮いた」人間に対する痛烈な批判である。
私が、細田の詩を(あるいは、ことばを)「おばさんの詩」と呼ぶ理由は、ここにある。簡単に言いなおすと、細田は「他人」をばかにしている。それを公言できるのは、細田には信頼できる「世間」があるからだ。
四連目。
することがある
宮澤賢治に生まれ変わる
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
イツモシヅカニワラッテイル
ソウイウモノニワタシハナリマス
(順不同)
床しいぞワタシという人
細田は「ワタシハナリタイ」とは書かない。「ナリマス」と書く。「ナリタイ」と書くと、奇妙なことに、その「ゆめ」に向かって「世間」を引っ張っていく。それが「正しい」ことの押しつけになる。しかし、「ナリマス」なら、それはそのひとだけのうちで完結する「ゆめ」だ。「なります、たって? なれるわけねえだろう」という嘲笑がかならずどこからともなく浮かび上がってくる。「ナリタイ」だと、「ああ、立派だねえ。がんばってください」という声になる。これは、微妙な違いに見えて、絶対的な違いだ。細田は「なれるわけねえだろう」という嘲笑を受け入れる「床しさ」を持ったひとなのである。ここが「おばさん」であって、「おばさん」ではないところだ。
引用しなかった二連目。私には、つまらなかった。抽象的で、空腹なこどもが、空腹にもかかわらず学校に来る、学びたくて来る、という矛盾を抱え込まないような教育は、実は教育ではないという「論理」、それは「教育の怠惰」だという批判を隠しているのだが、これはあまりに「論理」的すぎて、人間の姿が見えない。三連目の「自治会長」のような「ひと」が浮かび上がってこない。
眞神博「小田原につくられた電車の駅」は「そもそも/電車は私が進む方向には運行されていない」ではじまる。その三連目に「時間論」が書かれている。
来る時は前の時に
波のうねりのように劣る
斯様に時はうねる
正しいかどうかはわからない。しかし、「うねる」という動詞で時をとらえているところがおもしろい。時にかぎらず、「もの(実在)」は単純な動きをしない。さまざまに「うねる」だろう。個ではなく「かたまり」が実在なのだ。「かたまり」は、細田の書いている「世間」に通じる。「世間」は「かたまり」である。
ひとは死ぬ。しかし、「世間」は死なない。細田の「信頼」は、ここにある。