小倉金栄堂の迷子(15)
ことばは、もう捨てられてしまったのだとわからなかった。ただ、どんどん離れていってしまうことがわかった。昔、中国の小説で読んだ石のように浮き上がってしまっているので、追いかけることができない。そのとき、追いかけようとする焦りのすきまのようなところから、記憶がよみがえった。「彼」とは、これまで会ったことのあることばと同じように本のなかで出会ったのではなく、小倉金栄堂の一階で会ったことを思い出した。「あの手の本はないかな?」角口店員は、新しいことばをさがしていることばに訪ねられたときのようにレジの後ろの階段、二階へつづく階段に案内するのではなく、レジカウンタータからだけ見える一階の隅へ案内した。死角。新しいことばを求めてやってきたことばには見えない、その一角。ズボンのボルトでしっかりおさえたワイシャツから腹の形がしっかり見える男が本を開くと、それはことばのない本だった。新しいことばを探そうとしていたことばは、一瞬、何が起きたのかわからなかった。ことばはなく、ただ写真があった。その写真のなかに鏡があった。その鏡が映している硝子のテーブルと、花瓶があった。花は、驚いたことに、絶対に枯れることのない、すでに枯れてしまったバラの造花だった。銅で、できていた。ところどころに、すでに想像がまじりこんでいるのか、それは写真そのままではなかったが、だからこそ逆に、あ、あの写真はこの部屋だったのかと納得させるものだった。しかし、ことばは、その確信ほどはっきりとは自覚できなかった。捨てられたのだと、わからなかった。ただ、言おうとしたことばが落ちて散らばった。枯れた花のように、花びらのように。もとの形はわからないが、色が散っていく様子が美しくて、見とれているうちに、一度限りのことばはネクタイを締め直して、ドアの外へ消えた。