小倉金栄堂の迷子(14) | 詩はどこにあるか

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小倉金栄堂の迷子(14)

 迷子になる喜びについて語ることばが、最初に思い出すのは指の感触だ。指が触れたら、それでいいのだ。指がそっとことばの動きをなぞりなおす。そのとき文字が指の腹を誘う。小さなくぼみに、あるいはかすかな突起に。それが生き物のように、くっきりとわかる。突起の変化が鼓動のようだ。動悸のようだ。活字。もうなくなってしまったもの。紙と鉛とインクの闘い。その、指に伝わってくる興奮のなかで、ことばはさらに迷子になるのだが、迷子とは自分のことしかわからなくなるということだ。初めて生まれたものとして、自分を取り戻すことだ。だが、このことばが考えていることは、ほんとうにことばが考えたことなのか。「なぜ、私が好きなのか」という文字が、指から離れたところで、探るように動いた。迷子になる喜びについて語ることば、どうしていいかわからなくなる。別なことばによって整えてもらわないと、どう考えていいかわからない。「なぜ、私がすきなのか」ということばは、詩に触れることは、自分の感情の、まだ知らない最高到達点を発見することだと、迷子になる喜びについて語ることばにだけ聞こえるように言った。