マイク・ニコルズ監督「卒業」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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マイク・ニコルズ監督「卒業」(★★★★)
2011-04-17 10:29:05 | 午前十時の映画祭
監督 マイク・ニコルズ 出演 アン・バンクロフト、ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス

 ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスに求婚に行くまでがともかくおもしろい。特に、アン・バンクロフトとの慣れない情事が傑作。最初に見たときは高校生で、まわりで大人がくすくす笑っているのだが、何がおかしいのかわからなかった。ベンと同様に、童貞だったからですねえ。いまは、もうおかしくてたまらない。よく真顔(?)でこんな演技ができたなあ、ダスティン・ホフマンは。
 いろいろ好きなシーンはあるが、大好きなのはミセス・ロビンソンにハンガーをとって、と言われ、クローゼットを開け、「木と針金のどっちのハンガー?」と聞くところ。ばかだねえ。木の方をとろうとして、うまくとれなくて針金の方を渡すところ。あまりにリアル過ぎて、これって隠し撮り? これを演技でやれるって、どういうこと? ダスティン・ホフマンって、このときほんとうに童貞?
 ずーっとさかのぼって。
 最初のパーティ。いろんなひとがいろんなことをいう。そのなかで、女の客二人がダスティン・ホフマンを批評して「無邪気」と言うんだけれど、そうなんだねえ、ナイーブな感じを「年上の女」は敏感にかぎつけるんだねえ--と、これは今回気がついたこと。昔見たときは、気がつかなかった。
 それから。
 いろいろあって、キャサリン・ロスが大学から帰ってくることになる。そのときのミセス・ロビンソンの変化がとてもおもしろい。ダスティン・ホフマンに対して圧倒的に優位だったはずの彼女のこころが揺らぐ。「娘と会うのは、だめ」。これって、女の嫉妬だねえ。キャサリン・ロスと比べたら負ける。わかっているから、だめ、という。
 気晴らし? からかい? 好奇心? なんだかよくわからないものからはじまったはずの情事なのだが、このときはもう、ミセス・ロビンソンはダスティン・ホフマンなしでは自分の人生を考えられなくなっている。
 この変化をアン・バンクロフトはくっきりと演じている。あ、すごいなあ。やっぱり大女優だなあ、と思う。この嫉妬のシーンがなければ、ミセス・スビンソンは若い男とのセックスを遊んでいるだけになる。この嫉妬によって、前半の「笑い話」が「笑い話」ではなく、現実になる。
 そして、実際、このミセス・ロビンソンの嫉妬から、映画が突然、現実に変わっていく。この「切り換え」が絶妙だなあ。いいなあ。ほれぼれする。もう一回、見てみようかな、と思った。(こんなことは、私はめったに思わない。)
 最初に見たときは、何がおかしいのかわからず、2回目に見たときは、ダスティン・ホフマンの童貞ぶり(?)が笑われていると気がつき、今回はミセス・ロビンソンの感情の襞がわかった。そして、この感情の襞こそが、「現実」というものなんだなあ。自分ではどうすることもできない感情。それが動いていくとき、現実が動きはじめる。あらゆることが現実になる。現実として、自分に見えてくる。
 これはラストシーンの、バスのなかの二人の顔にもあらわれている。結婚式から花嫁を奪って逃走する。「一線」を越えたあと、一瞬、何をしていいかわからなくなる。現実が、急に目の前にあらわれてきて、それを一種の茫然とした感じで見つめてしまう。
 とてもリアルだ。
 映画ではなく、現実そのものを見ている感じになる。



 あれっと思ったシーンがひとつある。私の記憶違いなのだろうか。ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスと大学を歩く。回廊(?)を会話しながら、歩く。カメラと二人の間に、回廊の柱が入る。二人の歩く速度にあわせてカメラが動くのだが、そうすると会話は聞こえてくるが表情は柱に隠れるという瞬間がある。そのシーンが、私は、実はとても好きだった。今回見た映画には、それがなかった。類似したシーンは、街中にあらわれた。二人が歩きながら話すのを、たぶん商店の中からカメラが追う。ときどき柱の影に二人の顔が見えなくなる。二人が別れ、キャサリン・ロスがいったん柱の影に消えて、戻ってきてキスをする--うーん、こうだったかなあ……。違う気がするなあ。
 まあ、どうでもいいシーンなのかもしれないが、記憶のシーンにこだわるのは、実は、私はこのシーンから、あ、これは文学につかえると思ったからである。何か重要なことを書く場合、それをくっきりと書くのではなく、間にわざと「ノイズ」をいれる。じゃまな存在をまぎれこませる。分かりにくくする。そうすると、読者の方は逆に、その隠されたものを想像し、書かなかったものを補って「ことば」を完成させる。あらゆる芸術は作者がつくると同時に、作者のつくらない部分を読者(鑑賞者)がかってに補って育て上げるとき完成する。そういう構造になっている--ということを、私は「卒業」の、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスが歩きながら会話するシーンで学んだのだ。その肝心のシーンが、記憶とは違った形でスクリーンにあらわれた。びっくりした。
 「午前十時の映画祭」のシリーズでは、ときどきこういう経験をする。私の記憶違い? それとも別バージョン? 少し気になる。



 この映画はまた、音楽のための映画という気もしないではない。サイモンとガーファンクルの歌と映像がとてもいい感じで融合している。ストーリーを忘れて、映像が、音に変わっていくのを見ている感じがする。特にダスティン・ホフマンが車を走らせてキャサリン・ロスを探す時のシーンがいい。音楽がストーリーを離れて走り、その走りだした音楽を映像がかってに追いかける。車のスピード、映像のスピードと、音楽のスピードが、ストーリーとは別の次元で疾走する。サイモンとガーファンクルの曲を鳴らしながら、アメリカ大陸を車で走ってみたくなる。とても、いい。
      (2011年04月16日「午前十時の映画祭」青シリーズ11本目、天神東宝6)