第171回芥川賞2作品 | 詩はどこにあるか

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芥川賞2作品(「文藝春秋」2024年09月号)
 

 「文藝春秋」2024年09月号に、第171回芥川賞受賞作が二篇掲載されている。朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」と松永K三蔵「バリ山行」。この二作品を選んだ選者は「天才」である。全員が「天才」である。よく二作品の「区別」がついたなあ。私には一人の作者が書いた、一篇の作品にしか見えない。
 少し引用してみる。

 富士山の形をした雲は呼吸に合わせて、大きくなり小さくなる。遠くから園児のはしゃぐ声も遮断機の音に変わり、すぐに何頭かの犬の吠え声になる。獣道はコンクリートの細い路地に変わり、それも次第にひび割れてガタガタになり、しばらくして土道に変わる。草が膝丈あたりから太ももあたりまで伸びだす頃には、土道は木の杭と細い丸太で土止めされた簡素な階段になった。

 斜面に貼りつき足を掛け、手掛かりを掴み懸垂して身体をぐっと持ち上げる。そうやって全身で攀じ登る。登山口から入って登山道を歩く、そんな当たりまえの登山とはまるで違って、アスレチックに近かった。急斜面が続くと息が上がる。ヘルメットから汗が流れ、アウターにも熱が籠もり、私は堪らずジッパーを下げた。

 最初が「サンショウウオの四十九日」、あとが「バリ山行」。では、つぎの引用は、どっち?

 階段を登りきると小さな広場に辿りつく。不思議な懐かしさのある広場だった。周囲は高い樹々で囲まれて薄暗い。ごつごつした岩で縁取られた緑の池、どうやって遊べばいいのかわからないペンキの剥げた遊具が設置されている。林の奥に電線のない捨てられた鉄塔が一本立っている。今は誰もいないが、地面の草が踏み固められていて、ここを訪れる存在はあるらしかった。

 ただ思い付きで引用したのだが、もっと丁寧に読み込めば、もっと「そっくり」の文体を提示できるだろう。ただ、そんな面倒までは、私は、したくない。(三番目の引用が、「サンショウウオ」なのか「バリ」なのか、あるいは私の「捏造」なのか、興味のある人は、調べてみてください。最初に断っておくけれど、私はときどき「捏造」を交えて自分のことばを動かすので、三番目の文章が見つからなかったとしても、大騒ぎしないでください。)
 私が言いたいのは。
 この三つの文章を読み、その筆者を即座に特定できる人がいるなら、そのひとは「天才」だと思う。選評を私は全部読んだわけではないが、選者の誰一人として二人の文体がそっくりであると指摘している人はいない。つまり、彼らには、ふたりの文体の区別がついているらしいのだ。
 それだけではなく、二つの作品が「対照的」だとさえ言っている選者がいる。(「対照的」ということばがつかわれていたかどうか、まあ、いい加減な私の印象なのだが。)
 どこが対照的?
 「サンショウウオ」が空想的な「結合双生児」を題材にし、「バリ」が建築会社の登山好きの人物を題材にしていることだろうか。前者は「空想的」、後者は「現実的」。でも、そんなものは単なる「ストーリー」であって、小説にとって、何の意味もない。
 「サンショウウオ」の双生児が、性格(精神)も肉体的特徴も違う双子が身体的に「結合」したものであるのに対し、「バリ」ははっきりは書いていないが性格(精神)も似通ったところのあるふたりが双子ではなく身体的にべつべつに存在するというだけのちがいである。どちらのばあいも、その似ているのか違っているのか、どうとでも言える「ふたり」が出合い、行動し、そこで何事かが起き、精神的に変化していく。まあ、こんなふうに「要約」してしまえば、どんな小説でも、たいていの場合、誰かが誰かと出合い、似た部分、違った部分を触れ合わせながら「人間として」変化していくことを描いているから、こうした「要約」は批評でもなんでもなく、ただの「後出しジャンケン」のようなものであるけれど。
 それにしてもなあ。
 「サンショウウオ」は「哲学的」な思考がときどき言語化されるのだけれど、それは全部「つまみ食い」。作者が、「私は、こういう哲学的な文章も読んでいる人間です」と宣伝するだけのもの。ほんとうに「哲学」を深めたいなら(小説のなかで展開したいなら)、誰彼かまわず「つまみ食い」をするのではなく、ひとりの思想家の文体と取り組み、苦闘すべきだろう。何も考えていないから、「つまみ食い」をして、「私はこんなに知っている」と宣伝し、何も考えていないことを隠蔽しようとしている。
 他方、「バリ」は、そういうことをせず、ひたすら「昔風純文学文体」を継承しようとしている。しかし、その継承にオリジナルが組み合わさっていないから、なんというか、そのすべてのことばが、やはり「つまみ食い言語」に見えてしまう。
 二作品とも、「つまみ食い」の寄せ集めでできた「盛り合わせ」にすぎないのである。

 筒井康隆や志賀直哉が書いたら、ふたつの作品とも原稿用紙15枚、どんなに長くても30枚で終わってしまうだろう。ただただ長くて、一行として、ぜひこの一行を引用して感想を書きたいという「ことば」がない。

 本が売れないと生きていけない、と選者が感じているのかもしれない。読者を増やすためなら何でもしよう、ということなのかもしれない。でも、非個性的な「つまみ食い大賞」のような小説を「選ぶ」時間があるのなら、いっそ、「古典」をとりあげ、その紹介文でも書いた方がいいのではないだろうか。「古典」をとおして「ことば」にめざめた読者なら、きっと「選者の書いているすばらしい小説」に目を向けるだろう。「コウショウウオ」や「バリ」を読んで、小説はおもしろい、こういうおもしろい小説を選ぶ選者の作品は絶対に読まなければ……と思う読者はひとりもいないだろう。私なんかは、こんな作品を選んでいる作家の作品なんか、もう絶対に読まない、と思うだけである。