ジャック・ベッケル監督「モンパルナスの灯」(★★★) | 詩はどこにあるか

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ジャック・ベッケル監督「モンパルナスの灯」(★★★)

監督 ジャック・ベッケル 出演 ジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・バンチュラ

 モジリアニの生涯を描いた映画、なのだけれど。
 なぜ、モジリアニが、あの焦点のない目(瞳のない目)を描いたのか、首の長い肖像を描いたのか、というようなことは描かれていない。
 では、何が描かれているのか。
 モジリアニは女にもてた、ということが描かれる。このもてる男をジェラール・フィリップが演じるのだから、「美形だからもてる」ということになる。ふーん、美形でなければもてないのか。まあ、そうなんだけれど。なんといえば、それでは映画にならないだろう。いや、映画というのは、美男美女を見に行くもの(美男美女を見て自分が美男美女であると錯覚するもの)なのだから、これぞ映画というべきかもしれないけれど。
 で、おもしろいのは。なるほど、フランスだなあ、と感じるのは。
 ジェラール・フィリップはもてるから女とセックスする。そして次の女にまた手を出す。このことに対して、「罪の意識」というものを持っていないこと。好きな女とセックスをする、というのが当然と思っている。他の女に乗り換えても、「うん、新しい女ができたんだ」と当然のように主張する。「美形の男」というよりも「色男」だな。
 そして、これを捨てられた女が、なんというのか、これまた「当然」という感じで受け止めている。「そうなの、新しい女ができたの。私は捨てられたのね。でもいいわ。ちゃんとセックスしたんだから」という感じ。「色」を共有した、というのか、「色」を育てたというのか。未練がない、というと違うのだろうけれど、ジェラール・フィリップが他の女に引かれていく(色好み)のは「本能」のようなもので、それを引き止めてもしようがない、という感じ。そこで引き止めようとすると感情がめんどうくさいことになる。引き止めずに、それを見守る。女から、保護者(母親/色教育のパトロン)になる、という感じなのかなあ。
 出演者はジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・バンチュラくらいしか名前がわからないのだが、金持ちの女がジェラール・フィリップをつかまえて、「あんたは女好きのする男なのだ」というシーンがあるが、好きになる(愛する)というのは、相手の色をすべて受け入れて、その色になってもかまわないと身を任せること。そう決意すること。そういう「恋愛観」が、この金持ちの女、居酒屋の女主人、アヌーク・エーメが、とても平然と体現している。金持ちの女と居酒屋の女主人が、互いを見つめ、「あ、この女、ジェラール・フィリップの色に染まっている」とわかり、それを受け入れるシーン(ジェラール・フィリップ)が倒れ、居酒屋の二階に担ぎ込まれ、そこで闘病するシーンに、そういう感じが出ている。
 これは、もしかするとモジリアニ(ジェラール・フィリップ)の生涯を描いたというよりも、モジニアニを愛した女の愛の形を描いた映画なのかもしれない。男を愛するとき、女はどんなふうに強くなるか、それを描いている。自分の中にある「色」を引き出してもらい、それによって「強くなる」、そのことを忘れないのが女なのだ。この男は、私の「色」を知っている。男の「色」に染めるのではなく、男の「色」が女の「色」を強調する。「色」のハーモニー。この女の愛に比べると、男の生き方なんて、とても「浅薄」なものである。
 ジェラール・フィリップは、この「浅薄」を生来の美形で気楽に演じている。モジリアニの絵は特徴的だが(自画像を描いてもらう男が怒りだすくらいだが)、モジリアニは絵を描くとき、その絵が自分の「色/スタイル」であるということを、そんなに強く意識していない。相手を「変形」させているとは思っていない。自分の「色/スタイル」を正直に出しているだけ、という「軽い」自覚しかない。
 リノ・バンチュラは、この他人から見れば「浅薄/軽薄(あるいは他人への配慮のなさ)」を「気迫(野性の本能)」にかえて演じている。モジリアニの絵の魅力をいち早く発見するのだが、買わない。死ぬのを待って、アヌーク・エーメの待つアパートに押しかけ、そこにある絵を買い占める。芸術(人間)を愛するのではなく、「金」で手に入れ、「金」で手放す。つまり、そうやってもうける。保護者(パトロン)にはならない。「浅薄」を「冷酷」に昇華させて(?)生き抜く。アヌーク・エーメが「モジがどんなによろこぶだろう」とそこにいないモジリアニと「一体(ひとつ)」になって涙を流して喜ぶのを、「この女、まだ何にも知らないぞ、気づいていないぞ」と、ほくそえむ目つきが、なんともすごい。
 うーん。
 女は、こういう目つきにはほれないかもしれないけれど、男はほれる。私は、ぞくっとした。これは、すごい、と一瞬、「我を忘れた」。言い換えると、金もうけだけを企んでいる画商なんて人間としてつまらない(浅薄である)と批判することを忘れた。「流通している倫理観」で画商を判断することができなくなった。
 こんなふうに世界をぐいっとつかみとってしまう「権力の野性/野性の暴力」に、「本能の力」を感じる。「産む性」ではない男は、「生み出されたものを奪う性」なのである。
 と、考えると、モジリアニを初めとする芸術家というのは、男のなかにあっては例外的に「産む性」であり、「産む性」という共通項が女を安心させ、女を引きつけるのかもしれない。少なくとも、フランスの女にもてようとするなら、男はすべて芸術家にならないといけない、と主張する映画である、と思ってしまう映画である。
         (「午前10時の映画祭」天神東宝スクリーン2、2016年11月07日)