高山羽根子「首里の馬」(「文藝春秋」2020年09月号)
高山羽根子「首里の馬」は第百六十三回芥川賞受賞作。
その書き出し。
台風があきれるほどしょっちゅうやって来るせいで、このあたりに建っている家はたいてい低くて平たかった。(316ページ)
違和感を覚えた。「あきれるほど」が、どういう立場から発せられることばか、よくわからなかったからである。
この一段落目の最後は、こうである。
このオレンジと白の独特な屋根の色模様が南国特有の景色に溶け込んで、うまいこと情景をかもしだしていた。(317ページ)
「うまいこと」がまた奇妙である。台風に苦しむ土地の人ではなく、よそからみている。客観的、というのとも違う。見たものを「自分の主観」にしてしまっている。この「主観」は二段落目の最後、
建物群は、いま、それでもこの土地の象徴としてきっぱり存在している。(317ページ)
この文章の「きっぱり」にもあらわれている。
これから始まるのは、「寓話」(あくまでも語り手が存在することで成り立つ世界)であること、「現実」ではないことを告げている。
これは、これでいい。ことろが、この「主観」の持ち主の「順さん」は、320ページで、「主役」を「未名子」に譲ってしまうことになる。320ページから「文体」がかわるのだ。
まあ、大枠のなかに、もうひとつ枠ができた、と考えればいいのかもしれない。「劇中劇」のような、「寓話」のなかに「現実」を入れ込んだ世界と言えばいいのか。ふつうは、「現実」のなかに「寓話」を入れるのだけれど、この小説は「逆構造」を狙っている。
で、それだけでは終わらず、今度はその「逆構造」のなかに、また別の「寓話(フィクション)」を入れ込む。
そのとき、この「フィクション(虚構化することで初めて明確になる現実)」というのは何?
高山は、簡単に「謎解き」をしてしまう。「答え」を言ってしまっている。「孤独」である。(335ページ)以後、「孤独」が、この小説をひっぱっていく。
あとは、なんというか、安っぽい「ハゥツゥ思想解説書」みたいになってしまう。つまり「孤独」とは何かを、何回か定義しなおすために、ストーリーが利用される。
こんな具合。未名子はネットを使い、どこに住んでいるかわからない人物にクイズを出すという仕事をしている。クイズに答えからかといって、回答者に何かが与えられるわけではない。
一対一のクイズには、対話があり、心の交流が生まれます。(338ページ)
あとは、もう読まなくても、どうでもいい。私は最後まで読んだが、「孤独」な人間が、だれと交流し、どうやって心の交流をつくっていくか、ということが「現代の寓話(フィクション)」として展開されていくだけである。
自分の知らない知識をたくさん持っている人たちとの、深すぎない疎通も心地よかった。きっとここを利用する何人もの回答者も、こういうささやかな感情のやりとりを求めて通信をしているんだろう。そうして未名子自身も彼らと同じくらいに孤独だという実感があった。 (349ページ)
で、このままでは、現実を突き破り、ことばの力で真実に至るという小説にならないと考えたのか。主人公は、突然、こんなことをことばにする。(最終盤、である。)
未名子はほんのしばらく前まで、自分が本質的には仕事でクイズを出していた相手の回答者たちとおなじ種類の孤独と閉塞感を抱えているんだと考えていた。(401ページ)
突然、主人公は「自分は違うんだ」と主張して、その「孤独寓話(フィクション)」から脱けだして、「順さん」の「主観」(沖縄の埋もれた歴史)に寄り添うのだが、いい気なもんだなあ、と私は思ってしまう。
小説なのだから、沖縄をどんな具合に描こうと、それめそれで作者の自由だが、こんな「寄り添い方」はないだろう。沖縄を舞台にする必然性がないし、こんなに長々と書くようなことでもない。長く書くなら、「孤独」の哲学をもっと綿密に書く必要がある。比較する方が間違っているのかもしれないが、ボルヘスなら原稿用紙十五枚の小説だなあ、と思った。時里二郎なら二十枚の散文詩か。