ロバート・ワイズ監督「ウエストサイド物語」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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ロバート・ワイズ監督「ウエストサイド物語」(★★★★★)

監督 ロバート・ワイズ 出演 ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ジョージ・チャキリス、リタ・モレノ

 この映画を見るのは何度目だろう。はっきりしない。以前に見ているから、とぼんやり見ていたら、思いがけないことが起きた。
 「クラプキ巡査」がすごく早い段階で歌われ、「クール」曲がいつまでたっても始まらない。あれっ、この映画は短縮版? そう思っていたら、決闘でシャーク団とジェット団のリーダーが死んだ後に「クール」が始まった。えっ、「クール」ってここだっけ? 「クラプキ巡査」と入れ違っていない? 別バージョンの映画?
 でも、そんなことないよなあ。「クラプキ巡査」が決闘のあとだったら、ジェット団のリーダーが歌えるはずがないから。うーん、でもなぜそんな記憶違いが起きたのかなあ。
 記憶と言うか、脳みそと言うものは自分の都合のいいようにものごとを処理するからなあ。
 唯一思い当たるのは、「クール」は決闘の後に歌うにしては、あまりにもストーリーにぴったりしていて物足りない感じがするということかなあ。もっと小さないざこざのとき「クール」、大事件のあとは事件から飛躍した(無関係に近い?)「クラプキ巡査」の方が劇的に迫ってくると思うのだが、どうだろう。「クラプキ巡査」の明るい感じが、決闘の後、流血の後の方が、未熟な人間の暴力をあらわすようで、おもしろいと思うのだが。また、バーブラ・ストライザンドがどこかで「クラプキ巡査」を歌っていて、これが私は「ウエストサイド」では一番好きなのだが、そういうこともクライマックス(?)でこの曲を聴きたいという気持ちを生み、そのために私がかってに曲順をかえてしまったのかなあ。

 それは別にして。
 やっぱりいいねえ。ニューヨークは巨大な都市だが、その大きさが青春の「重荷」になっていない。巨大を吹き飛ばす若さ、肉体の躍動がある。ビルの高さよりもよりもジョージ・チャキリスの振り上げたつま先のほうが空に近いという感じ。ビルは動かないけれど、人間は動くことで限界を超える。いまのダンスから比較すると洗練の度合いが低いかもしれないが、そのぶん、はみ出すエネルギーがある。筋肉の力を感じる。ナタリー・ウッドもリタ・モレノも丸々とはいわないけれど、健康な「太さ」がある。ナタリー・ウッドがターンするときスカートがふわりと浮き上がり、肉付きのいいももがスクリーンにあふれるなんて、うーん、いい時代だったなあ。いまはもっと露骨に肉体があらわれるけれど、最初から見せるためのものだからねえ・・・。