デニス・ホッパー監督「イージー★ライダー」 | 詩はどこにあるか

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デニス・ホッパー監督「イージー★ライダー」(★★★★)(2021年06月12日、中洲大洋、スクリーン1)

監督 デニス・ホッパー 出演 デニス・ホッパー、ピーター・フォンダ、ジャック・ニコルソン

 若者がバイクに乗ってアメリカを走る。それだけなんだけれど、走り抜けられる(?)人々(動けない人々)との対比がおもしろい。動けない人々のなかには、土地に住みついている人もいれば、「新天地(?)」を求めて、移動してきたヒッピーもいる。土地に住みついている人が「保守的」なのは想像できるが、新天地で共同生活するヒッピーもまた「保守的」である。「自由」について、固定概念をもっている。
 その「自由」の定義だが。
 これが、いささかむずかしい。ピーター・フォンダがいうセリフのなかに「おれは、このままがいい」ということばがある。このことばが、当時、どう響いたかわからないが、私は妙に納得した。自分であり続ける。ピーター・フォンダが夢見ているのは、ただそれだけだろう。何がしたいわけではない。あえて言えば、何もしたくない。何もしない自由。何ものにもならない自由。つまり、既成の「型」にはまらない自由。
 不思議なことに、1969年、1970年には、そういう自由があったのだ。
 そういう意味でいえば、ジャック・ニコルソンの演じた若手弁護士がとても象徴的だ。なにやら「名家」の息子らしい。それが落ち着かなくて、アルコールに逃げている。一方で、マリフアナを勧められると、自分はとんでもないことになりそうだというような自制心を見せたりする。結局、吸ってしまうけれど。そして、ある保守的な土地で(名前は忘れた)、三人は「型にはまらない自由」が嫌いな土地の人に襲われる。三人のうち、「名家出身の弁護士」であるジャック・ニコルソンが死んでしまう。
 これもなにやら象徴的。実際に死ななくても、結局、名家の世界から「追放」されることになるだろうなあ。
 私はジャック・ニコルソンの大ファンだが、このころから「矛盾」を内に秘めた役どころを得意としていたのか、とてもおもしろかった。ジャック・ニコルソンの肉体が具現化した世界が、その当時のアメリカを如実にあらわしているのだと思った。酒を飲む自由はある、酔っぱらいはまだ許容されている。しかし、マリフアナのような新しい自由はだめ。バイクに同乗するとき、「ヘルメットを持っているか」といわれて、アメリカン・フットボールのヘルメットを持ちだしてくるところなんか、いかにもアメリカの「規律的自由」を引きずっている。
 私は、デニス・ホッパーをそんなに見ていないが、「主役」をピーター・フォンダにゆずって、ちゃらちゃらしている感じがおもしろくて、とても好きになった。ジャック・ニコルソンの使い方もおもしろいし、映像的に、ただほうりだしたような広大なアメリカ大陸と、ときどきパパッと時間が交錯するような風景(夕暮れと夜の風景が瞬間的に交錯するような世界)のとらえ方もいいなあ、と思う。
 再映(リバイバル)は何回かあったかもしれないが、私は、スクリーンで見るのは初めて。私は音楽には疎いのでよくわからないが、当時は時代を切り開く音楽だったのだと思う。きっと若者には刺戟的だったろうと思う。 (午前10時の映画祭11の一作)