池井昌樹『理科系の路地まで』(23)(思潮社、1977年10月14日発行)
「病鬱のようにしらじらと透けるわかは」の「表記」はとても奇妙である。
インク水のかほる五月のゆふぐれ
みずにひたったわかははやはらかに
タイトルのなかの「ように」は現代仮名遣い。「わかは」は「わかば」と読ませたいのか「わかは」と読ませたいのか、わからない。昔は濁音表記をしなかったから、「わかば」と読むのかもしれないが、そのスタイルを一貫させるのなら「しらじら」ではなく「しらしら」だろう。
本文では「かほる」という表記がある。小椋桂の「シクラメンのかほり」に先立って、池井は「かほる」をつかっている。もし旧仮名遣いで書くなら「かをる」だろう。「ゆふぐれ」はこれ自体は問題がないが、やはり濁音表記では「わかは」と一貫性がない。
なぜ、こんな表記の不統一が起きたのか。
「やはらか」と書きたかったからである。そして、その「やはらか」は「わかは」の「は」と一体化しているからである。
池井の表記は間違っているが、その間違いを貫いて(というのは変な言い方にあるが)、どうしても「わかは」の「やはらかさ」、「は」のなかでの一体感を書きたかったからである。ここには間違えることでしかたどりつけない「正直」がある。
そして、この間違いは、一種の「予感」なのである。あるいは「予兆」なのである。その「間違い」を通ることで、池井は、いま、日本で行なわれている国語教育を超えたところと結びつくことができる。
だいたい「文法」というものは「後出しジャンケン」のように、あとから整理したものである。日本には「五十音図」という便利なものがあるが、あれは契沖が「発明」したものであって、あれができるまでは(できてからだって)、「かなづかい」を間違える人は大勢いた。芭蕉もずいぶん間違えている。ことばは、まず音であって、文字ではないからだ。
「かなづかい」を間違えること(無視すること)で、池井は「かなづかい」によって整理される前の「音」につながるのかもしれない。池井の表記に「ひらがな」が多いのは、そういうことも要因のひとつかもしれない。
「秋の小父さんはしってゆく」の二連目は全体が四字下げなのだが、ここでは下げないで引用する。
とろんり秋の玲瓏の 玻璃製健康診断計
すすにひんやり まっくろけの夜に
がらん がらん
水果の汁の水蜜燈とろつく
玻璃の診断計ゆれる
すうっ! とのびた みのむしろおぷが
まっくろけのよるを ゆっくらゆれてる
「ここでは「漢字」がおもしろい。「玻璃製健康診断計」は「はりせいけんこうしんだんけい」と読んでみた。「診断計」が何か奇妙だが、それが「玻璃の診断計ゆれる」と展開すると、「診断計」の「はり(針)」が体重計の「針(はり)のように揺れる感じがする。「玻璃製」の「玻璃」のなかには「針」が含まれていて、それが「計(はかる)」と結びつく。
漢字表記の場合でも、池井は「音」の交錯を利用して「異界」に触れているようだ。
「水果の汁の水蜜燈とろつく」の「燈」も同じだ。「水蜜桃」と書いてしまうと、夜のなかで揺れる明かりが見えにくい。「水蜜燈」の方が私の意識を揺さぶる。