フランソワ・オゾン監督「秋が来るとき」(2) | 詩はどこにあるか

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 きのうの感想のつづき。
 少年とは、いつも間違える人間のことである。この映画の少年も「間違っている」。
 少年の母は事故死した。それは偶然かもしれない。しかし、その事故を引き起こしたのは、少年の知り合いの男である。祖母の友人の息子である。少年は、彼を知っている。彼をアパートに引き入れたのは、少年である。その記録は防犯カメラに映っている。警官がその映像(証拠)をもって少年を訪ねてきたとき、少年はその男を「知らない」という。(カメラの男の顔ははっきりとは見えない。)「知らない」と答えたとき、少年は男を「許している」のである。それを「許す」ことは社会的には間違っている。しかし、個人的には「正しい」。他人の行動は「許す」しかないのである。特に、決定的な間違い(たとえば殺人)でないかぎり、「許す」ことが必要なのだ。「許す」ことをとおして少年は「おとな」になるのである。つまり、「主人公」になる。この映画は、それまでの主人公・祖母が死ぬところでおわるが、それは、これからはじまる「物語(人生)」では少年が「主人公」になると告げているのである。
 この「他人を許す」ことをとおして「おとなになる(主人公になる)」ところに、フランスの「個人主義」の特徴がある。この映画は少年を描きながら「おとな」を描いている。「おとな」というのは、いつでも「主人公」である。それは、つまり、「社会に対して責任を持っている」人間のことである。社会というのは、つかみにくいが、簡単に言いなおせば、自分と関係のある人に対して責任をもつこと、だれかといっしょに生きていくこと、そのひとのために生きること、責任を持つこと、である。
 祖母は娼婦だった。娼婦は「正しい職業」ではないかもしれない。「間違った職業」かもしれない。しかし、そうするしかなかった。祖母は、自分のためだけに娼婦の職業を選んだわけではなかった。それを「許さないひと」がいる。娘も「許さない」ひとのひとりだった。少年は、どうか。許す。許すことで「おとな」になる。そこにも小さな、しかし、確実な成長がある。娼婦は間違った職業であるという意識がある。しかし、それを少年は自分自身の「肉体」でつつみこみ、表に出さない。「秘密」にする。このとき「秘密」は「許す」である。「秘密」は「過去」でもある。
 秘密は過去である。秘密を許すは過去を許すであり、過去を許すは過去といっしょに「生きる」である。ここまで考えてくると、この映画の舞台が、パリから離れた田舎であることの理由がよく分かる。パリにも過去はあるが、田舎の方がもっと過去がある。自然が昔のまま生きている。土があり、森があり、そこには人間が栽培したものではない自然のキノコがある。それは季節に合わせであらわれる。自然の循環を生きている。家の「外」だけではなく、家の「内」でも、生きている。薪を焚いて暖房する。キノコをとってきて、料理して食べる。自然との共存がある。大事にしているグラスがある。大事な客が来れば、そのグラスでワインをいっしょに飲む……。その静かな生活が、カメラがとらえる人間のまわりの空気が、「過去」を含んでいて、とてもすばらしい。映像を見ているだけで、フランスの田舎につつまれてしまう。
 自然は、ときどき人間に対して残酷である。人間に対して厳しいときがある。たとえば、毒キノコを食べれば、人間は死ぬ。しかし、自然は人間を「詰問」しない。人間が退けば、それで「許す」。この「詰問しない」もまた「フランスの個人主義」の特徴だと思う。追加になったが、補足して書いておく。この映画では「詰問するひと」(許さないひと)として少年の母(祖母の娘)が登場する。そして、この「詰問する/許さない」ことのために死を招いてしまうのだが、その彼女でさえラストシーンでは「許すひと」になる。少なくとも、祖母は「許すひと」としての娘に出会う。そばにいるのだから、それは「許した」証拠なのだ。
 季節がめぐるような静かな、しかし、たしかな時間の流れ。そのなかで、ひとは「間違い」ながら、少しずつおとなになってゆく。「許す」ことを知りながら生きていく。「許す」しかないのが、生きることなのだと感じさせてくれる。しみじみとした映画である。