監督 フランソワ・オゾン 出演 エレーヌ・バンサン、ジョジアーヌ・バラスコ
孫が訪ねてきたとき、祖母(主人公、エレーヌ・バンサン)が「モン・アモール」と呼びかける。字幕は「ルカ」。「私のかわいい子」とはなっていない。これは「私のかわいい子」、あるいは「私の愛」では、日本語としてなじまないからである。それは当然なのだが、でも、これがこの映画のキーワードのひとつなのである。エレーヌ・バンサンにとっては、孫はもちろん、娘も、友人も、友人の息子も「モン・アモール」なのである。そして、その「モン・アモール」に対して「よかれと思ったこと」をする。この「よかれと思ったこと」というのはフランス語で何といったのか、私のフランス語力では聞き取れなかったが、この「よかれと思ったこと」はエレーヌ・バンサンの行動をとおして孫にしっかりと引き継がれていく。つまり「モン・アモール」と呼べるひとの世界が広がっていく。これが、とてもいい。友人のジョジアーヌ・バラスコは、エレーヌ・バンサンの「よかれと思ったこと」の行動すべてを全面的に受け入れているわけではないが、絶対反対とも言わない。「よかれと思ったこと」が必ずしも、その行動の対象者にとって「いいこと」につながらないことがあるということを知っているからである。「よかれと思ったこと」はいい結果を生むときもあれば、悪い結果につながることもある。そして、この「よかれと思ったこと」というのは「よかれと思ったこと」をするひとの「秘密」である。言い換えると、「押しつけ」あるいは「恩着せ」であってはならない。
この問題を、この映画は、ほんとうにフランスっぽく描いている。ああ、フランス人だなあ、と感じる。アメリカ映画では、エレーヌ・バンサンの「よかれと思ったこと」は孫息子には引き継がれないだろう。ジョジアーヌ・バラスコは容認しないだろう。イギリス映画でも、違った形で「秘密」は展開するだろう。アメリカ映画では「秘密」は暴かれるだろう。イギリス映画では、「秘密」は暴かれないが、それは違う論理によって暴かれない。「証拠」が「本人の供述」ではないから、「秘密」のままである。
私は、ちょっと「落下の解剖学」を思い出した。「事実」は「ひとつ」である。夫は転落して死亡した。それは、事故か殺人か。その「経過」が違う。そして、そこに「秘密」がある。つまり「よかれと思う」判断がある。「落下の解剖学」でも、鍵は少年の判断だった。「秋が来るとき」でも、鍵は少年の判断である。少年の母はアパートのベランダから落ちて死亡した。事故(自殺)か殺人か。「落下の解剖学」と違って、この映画では、観客はそれを知っている。その知っていることを、少年(孫)はどう受け止め、行動するか。そのとき、少年の判断を左右しているものは何か。
フランス人の「わがまま」が、私は好きなときと嫌いなときがある。そして、好きなのは、この映画のような「わがまま(主観の押し通し方/よかれと思うことの貫き方)」とは違ったものだったのだが、そうか、フランス人は、こういう「わがまま」も押し通すのか、とかなり感動しながら映画を見た。つまり、私は、少し認識を変えた。
最初に、こうしたこととあまり関係ないような「モン・アモール」のことから書き始めたのは、「わがまま」を押し通すとき、そこには必ず「ことば」が介在するからである。「行動」だけでは「わがまま」にならない。「ことば」があって、つまり「ことばの解釈の相違」があって、そこから「わがまま」がはじまるからである。そういう意味でいうと、この映画は、フランス語が堪能でないと、ほんとうに理解できるのかどうかわからない。私は、誤解しているかもしれないとも思う。フランス語に堪能な人が、この映画をどう見たか、それを知りたいとも思う。
私が書いたことは、微妙すぎる心理の問題かもしれない。しかし、この映画は、その心理の微妙さをしっかり映し出すように、とてもていねいな映像の積み重ねで展開する。田舎の美しい自然から、土の感触、空気の揺れさえ伝わってくるようだ。古びた、しかし、きちんと手入れされた家(室内)の感じも、とても美しい。そこには生きている人間の手触りがある。「八月の鯨」の老いた姉妹の家もこんな感じだったなあ、とも思った。そうしたていねいさがあるから「幻想」さえも、「幻想」という気がしない。ラストがとても自然なのは、そのためだと思う。エレーヌ・バンサンは、これまでみたことがあるかどうか記憶にないが、とてもよかった。