谷川俊太郎『別れの詩集』(12)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)
「ジイジ」。この詩集のなかでは、好きな詩のひとつである。どこが好きか。二連目である。一連目から引用する。
おひさま おつきさま おほしさま
きものきたおとこのこが えほんをみている
むかしのえほんのなかで よる
たいようも つきも ほしも かわらない
でもおとこのこは おじいさんになって
まどぎわのいすにすわっている あさ
「おじいさんになって」がいい。こどものときは「おひさま おつきさま おほしさま
」。でも「おじいさんになって」、いまは「たいようも つきも ほしも」とかわっていく。
一連目の「よる」は、二連目に「あさ」になる。ここにひとつの「逆転」がある。それも、おもしろい。ふつう時間の経過を言うとき、朝が夜になる、という。一日が過ぎる。しかし、この詩では「よる」が「あさ」になる。この「逆転」は、「おじいさん」が「こども」になる、を隠している。
「おじいさん」は「こども」になって、絵本を読んでいる。絵本のなかには、太陽と月と星。絵本だから、かわらない。
この不思議さ。なぜ、絵本はかわらないのか。
このあと、いかにも谷川俊太郎らしい「論理」が展開されて、詩はしめくくられる。それについては、私は、何も言わない。二連目が好き、とだけ書いておく。
「(もし死が)」は、「矛盾」で成り立っている詩である。詩とは矛盾のことである。つまり、ことばを刺戟してくることばのことである。
もし死が
あるのなら
そこから
始める
わたしは
もう
いないが
前半の矛盾は、「始める」の主語がわからないところにある。「始める」は他動詞である。「始める」ひとがいないといけない。「私」は「いない」のだから、「私」が「はじめる」わけにはいかない。しかし、ここでは、やはり「私」が「はじめる」のである。「いない私」が、「はじめる」のである。
ことばは「矛盾」を考えることができる。間違ったことを考えることができる。ことばは、間違いを生きることができる。
虚空は
在る
至る所に
目に見えず
耳にも聞こえぬ
ものに満ちて
「虚空」は何もないから「虚空」である。「ものに満ちて」いたら「虚空」ではない。この矛盾を、谷川は「目に見えず/耳にも聞こえぬ」ということばで切り抜けようとする。「目に見えず/耳にも聞こえぬ」なら、そこには「なにもない」と言える。つまり「虚空」と呼ぶことができる。
でも、それが鼻でにおいを感じたり、手で触ったりすることができたら?
こういう質問は「意地悪」というものかもしれない。
しかし、詩とは、ことばにふれて、ことばが動き出すときにこそ「存在」が確かめられるものだから、私は「意地悪」を言うのである。
相手が人間だったら。
意地悪をすると、相手は意地悪だなあという「反応」をしめす。ことばに出して言わなくても、「反応」がある。その「反応」がみたくて、意地悪をすることもある。私は、詩のことばにも、そんなふうに向き合う。「反応してほしいなあ」と思って。
「意地悪は、愛の裏返し」というようなことばを含んだ歌謡曲があったようだが、そんな気持ちだなあ。
私はあまのじゃくだから、単純に「感動した」というようなことは言いたくない。