池井昌樹『理科系の路地まで』(19)(思潮社、1977年10月14日発行)
「トマト」。
トマトも わるくない
ひやっこいおもたさが いい
ぽけっとに入れておいて 忘れた頃
ゆびさきに こくっと つめたく
ふれるのが いい
感覚、感受性の問題として、この書き出しは、多くのひとにつたわると思う。ところが、いろいろ書きつづけて、五連目。
りんぱ液や 水薬が
まっくろの淵の底に透き通る七色そうめんの血管に
うつくしく流れる頃には
カタリ 腕木が 仄白く おりて
まあるい トマトは
しゅんわりと 青味がかるだろう
これは、わかるだろうか。トマトは、途中にある「トマト われて たらんら/金魚晶水 とけちるのもいい」の「金魚」のように赤いものだろう。トマトから赤を想像するのが一般的だろう。しかし、その赤を裏切るように、ここでは「青味がかる」と書いている。それだけでも「論理的」ではないが、書かれていることが、どういう「脈絡」をもっているのか、わからないだろう。少なくとも、私には、わからない。
ここからが、問題なのである。
感受性に「論理」はいらない。「論理」は他者に共有されることを求める。他者に共有されることで「論理」は「事実」になる。しかし、感受性は共有など必要としない。本人の肉体が肯定すれば、それでいいのである。そこに、感受性の「正直」がある。他人を必要としない。感受性は、他人に共有されることを拒むとさえ言える。
ここが、たとえば谷川俊太郎の詩と池井昌樹の詩の違いである。谷川のことばは「論理」を含んでいて、それは共有されることを求めていることが多い。そして、多くの読者は、それを共有できたとき、詩を詩として納得する。
これは、私の考えでは、間違っている。
どうしても思い出してしまうのが谷川俊太郎とねじめ正一との「詩のボクシング」である。最終ラウンドはくじ引きでひいた「タイトル」にあわせて即興詩をつくるというものだった。ねじめは「テレビ」を引き当て、ことばが、どこへもたどりつけなかった。それに対して谷川は、ラジオは声をつたえる。声は消えてしまうけれど、記憶には残る。いまここにいるみなさん(観客)は、私(谷川)の声を家にもって帰ってほしい、というような詩をまとめた。そこには「感受性」はもちろんあるが、同時に「論理」が大きく動いている。そして、その「論理」が共有されることによって、谷川はねじめとの「ボクシング」に勝った。そのことが、私は、どうしても忘れられない。「スピーチコンテスト」や「ディベート」なら、それでもいい。しかし、「論理」の共有を前面に出して谷川が勝利したというのは、どうにも「詩のボクシング」らしくない。
「論理」を超えて、その詩人の「感受性/感性」が自律し、動いていかなければ、詩ではなくなるのではないか。私は、どうしても、そう考えてしまう。
私は池井と知り合ったころから言いつづけているが、池井の詩は嫌いだ。気持ち悪いところがある。「トマト」のころは、もうだいぶ慣れてきているが、それでも「まっくろの淵の底に透き通る七色そうめんの血管に/うつくしく流れる頃には」という二行、とくにその「うつくしく」ということばは、いやだなあ、と思う。しかし、だからこそ、それが詩なのだとも思う。