谷川俊太郎『別れの詩集』(11)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)
「終わりと始まり夜の場所」。
アダージョの最後の音が
ゆるやかにディミニュエンドしていき
音楽の終わりは静けさの始まりと区別がつかない
……という言葉がもう静けさを壊している
書き出しの四行。その四行目が好きだ。三行目は、谷川が好んで用いる論理のなかに潜む詩の形式である。多くの詩は、こういう三行目の形式で閉じられ、「抒情的」と評価される。しかし、この詩では、四行目を書くことで谷川は、その「抒情」を壊している。抒情の破壊のなかに、あたらしい抒情をつくりだそうとしている。
このつづきのようにして二、三連めは書かれる。その三連目に、
終わりと始まりを辞書は反意語と呼ぶけれど
終わりが終わるとき始まりはもう始まっている
書いて、四連目で
古い年の終わりに穏やかに枯れていくものたち
新しい年の初めに生き生きと芽吹くものたち
そのどちらも同じひとつのいのち
切り離してしまえるものは何ひとつないのだ
この最終行は、いわば一連目四行目の「修正」のようなものだけれど、あるいは新しい昇華のようなものだけれど。
私はここで、谷川の死を思った。
谷川は死んだ。そのいのちの終わりと、どんなことばのいのちの始まりと「区別なく」つながっているのだろうか。わからない。しかし、たしかに、
切り離してしまえるものは何ひとつないのだ
と思う。
どんなことばも谷川の書いたことばとつながっているだろう。たとえ谷川の死を否定したとしても、そこには否定する(谷川が一連目でつかったことばを借りて「壊す」と言いなおそうか……)、その「つながり」に気がつかないことがあったとしても、それは気づかないだけで、かならずつながっている。特に谷川のことばと限定しなくてもいいのかもしれないけれど、ことばとはそういうものだと思う。
この詩を、私は、またいつか思い出すだろう。