青山七恵「やさしいため息」(「文芸」2008年春号、2008年02月01日発行)
数年ぶりに会った弟(風太)が姉の生活を日記につづるという、ありえない世界を描いている。ありえない世界なのに、まるで実際にそんなことがあるかのように描かれている。文体の力である。ありふれた日常をありふれたことばで描写しつづけることで、このありえないできごとをありふれりものにかえてしまうという不思議な不思議な小説である。
おもしろいのは弟によって記録される生活(日記)がとてもつまらないので、姉が嘘をつき、その嘘にあわせて現実がかわっていくという点なのだが、ここでも青山の文体の力が発揮されている。そこにかかれていることは嘘なのだが(小説だから、もちろん嘘に決まっているのだが)、文体に力があるので、その嘘を受け入れてしまう。嘘のなかに、人間の不思議さを見てしまうのである。
その構造を象徴するような描写が、小説がはじまってすぐにある。いわば「種明かし」のようなものなのだが、この最初から種明かしをしている点も、この小説にいっしゅの安心感を与えている。これも青山の文体の力である。
その部分。
旅行先で突然姿を消して、必死で捜し回るわたしたちをバードウォッチング用に持ってきた望遠鏡で観察して、見つかれば「お腹が痛かったから」と大泣きするような弟だ。その泣き方がいかにも殊勝で哀れを誘うので、嘘かもしれない、いや、おおよそ嘘泣きなんだけれど、と思いつつ、ついわたしたちは許してしまう。困ったように目を合わせる両親たちに、わたしはいつもはがゆい思いをしていた。
「弟」を青山、「嘘」を「小説・やさしいため息」、両親を「批評家」、「わたし」を読者に置き換えると、この小説の全体がうわーっと浮かんでくる。「はがゆい思い」は、ちょっとそのまま「はがゆい」には置き換えられないかもしれないが。
「はがゆさ」を、しかし、どう批判していいかわからない、わかっているのに批判できないというふうにとらえてみると、小説と作者、批評家、読者の関係になるだろうと思う。
もう一か所。これもほとんど小説の書き出しの部分である。
わたしたち家族は、夜のあいだに小雨に濡れた服を着替えもせず、無事見つかった風太を眺めて、訳もわからず感動していた。
「訳もわからず感動していた。」これは、批評家と読者の、「弟」(作者+小説)の感想にもなるだろう。
「訳がわからない」のは、それを(青山の小説を)的確に批評する方法が確立されていないからである。それは逆に言えば、青山の小説が、小説として確立された文体とは違った文体、新しい文体で書かれている、という意味にもなる。
青山は、まったく新しい文体を小説に持ち込んでいるのである。これはたいへんなことである。一種の「革命」である。小説の革命がはじまっている。
最後に、青山は、小説というものをもう一度「種明かし」している。なぜひとは小説を読むのか。嘘とわかっていて、その嘘にのめりこむのか、ということも説明している。
駅で、部屋で、街の中で、わたしはある声を探している。風太のノートに書かれた文字のように、その声がわたしの生活を語ってくれることを待っている。
小説を読む。それは作者が(青山が)、「わたし」(読者)の生活を語ってくれるからである。しかもその生活は「わたし」(読者)のものであるにもかかわらず、青山が語ってくれるまでは気がつかなかった生活である。青山の小説を読むことで、わたしたち読者はわたしたちの、これまでことばにならなかった生活を読む。「わたし」を発見する。
芥川賞を受賞した「ひとり日和」もおもしろかったが、この小説もおもしろい。傑作である。青山の小説からは目が離せない。