谷川俊太郎『別れの詩集』(4)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)
「誰にもせかされずに」。
誰にもせかされずに私は死にたい
とはじまる詩。その三連目の終わりに二行。
私はただこころとからだをひとつに運命に従いたいだけ
野生の生きものたちの教えにならって ひとりで
「お別れ会」のとき吉増剛造が語ったことば「ひとりだち」が私にはなぜか「ひとりぼっち」に聞こえた。そして間違えて聞き取ったまま、「ひとりぼっち」の方が谷川にぴったりかなあ、と思った。
谷川の詩は多くのひとに愛されている。私も谷川の詩は好きだが、その詩をだれかと「共有したい」という気持ちは、ほとんどない。きのうの文章で「鉄腕アトム」の替え歌を「お別れの会」でみんなといっしょに歌いたかったなあ、と書いたが、そのとき合唱になったとしても、私には何かを「共有した」という気持ちは起きなかったと思う。ただ、その場にいただけ、という気持ちになったと思う。
私が谷川の詩について書くとき、私は谷川とだけ向き合っている。それ以外のひととは向き合っていない。『別れの詩集』の編者に対して苦情を書くのは、その編者を切り離してしまって、ただここにおさめられている詩と向き合いたいからである。編者の「意向」を排除して、谷川のことばと向き合いたい。
「ひとり」には、特別な意味があると思う。詩は、意味をつたえるものではないが、この「ひとり」を読むと、ふっと、谷川(の詩)と一対一で向き合ったときにだけ感じることができる何かを感じる。
詩の最後の二行。
生きている人々のうちにひそやかに私は残りたい
目に見えぬものとして 手に触れることの出来るものとして
「ひとり」は「手に触れることの出来るもの」と同義であると思う。
「お別れの会」で谷川に「触ったことがあるひと」、という話題が出た。実際に谷川の肉体に触ったことがあるのは、女のひとの方が多かったようである。
その話を聞いていたときは、私はこの詩が詩集におさめられていることを知らなかったのだが、いま思い返すと、その話題はなかなかいい話題だと思えてくる。
「お別れの会」の会場には、谷川の愛用していたパソコンや眼鏡、それからコーヒーミルなどが展示してあった。それに触るとき、私は谷川に触ることになるかもしれない。老眼鏡に触ってみたかったが、ちょっと遠慮して手にとってみなかった。そのことが、いま、かなり心残りだ。まえ、目で触ったから、いいことにするか……。
でもね。
そうだねえ。
もう谷川は「目に見えぬもの」になってしまった。しかし、不思議なことに「手に触れることの出来るもの」として、すぐそばにいる気がする。それは、たとえば「声」のように、「目に見えぬもの」だけれど、耳という肉体に触れてくる。同じように、詩を読むとき、そのことばが私に触れてくる。
たとえば、先に引用した「ひとり」が。しかも、それは「ひとりぼっち」という形になって、触れてる。「ひとりぼっち」を通して、私は谷川に触れる、と言いなおせばいいのだろうか。