細田傳造「拳銃」「美称」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

細田傳造「拳銃」「美称」(「納屋」3、2025年04月25日発行)

 細田傳造「拳銃」は、

アソンデクル

 とはじまる。「遊んでくる」でも「あそんでくる」でもない。「アソンデクル」。それは、どういうことだろうか。
 私は、仮説として「正直になってくる」と読む。こんなふうに読むのは、たぶん、私がいま大岡昇平を読み返していることと関係がある。
 ひとはだれでも嘘をつく。大岡昇平も嘘をつくだろう。それでも、私は大岡昇平は「正直」だと思う。
 嘘は、たいてい他人をだますために嘘をつく。そして、他人をだますことは意外と簡単であるらしい。世の中にいろいろな詐欺があふれているところをみると、そして、そういう詐欺師はそんなに頭がいいとは言えないところをみると、たぶん、他人をだますのは簡単なのだろう。しかし、だまされない人間がいるところをみると、その嘘が発覚するところをみると、やっぱり嘘を貫き通すことはむずかしいと言えるだろう。
 自分に対しては、どうか。これは他人に対して嘘をつくよりももっと簡単である。おそらく自分をだましているということに気がつかないまま、自分をだましてしまう。というか、みずから進んでだまされてしまう。そっちの方が都合がいいからだ。さらに、その嘘がばれそうになったら、次々に別の嘘をでっち上げていく。嘘の固まりになる。それでも、ひとは「私は正直な人間である。だれもだましたことがない」。いやいや、いつも自分をだましていることに気がつかないだけである。気がつかないようにしているだけである。

アソンデクル

 は、他人を意識せずに、さらには自分であることを意識せずに、正直になってみるということである。いや、それさえも嘘であるけれど。しかし、まあ、「自分に正直であるとき、私は他人を傷つけるかもしれない」という不安をかかえているひとは、そこでちょっと用心をする。どっちにしろ、自分は自分をだましている。世間がしてはいけないということをする。それは、自分でもしてはいけないということはわかっている。しかし、なんやかやと「理由」をつけて、自分をだまして、自分の好きなことをする。そういうとき、「アソンデクル」という。正直な自分を「アソバセテクル」ということでもある。
 で、時には、

アソンデクル
コレアズカッテクレ
志村警察のおまわりのひとが
拳銃をはずし
ジャンパーに着がえて出ていった

 というようなことが起きる。世間を捨てる、世間のなかの自分を捨てるのだから、何をするかわからない。同時に、何が起きるかわからない。だから、危ないものは持っていかない。危ないものを持ったまま「アソバナイ」。まあ、これも、嘘である。そういう嘘で自分を納得させている。そういう嘘に、当人は、いつでもだまされる。
 理由、いいわけなんか、「後出しジャンケン」だから、どんなふうにも言いなおすことができる。嘘つき。そして、その嘘に最初に自分がだまされる。だまされる「自分」を正直とはいわずに「気が弱い(意思が弱い)」というひともいる。人間は、みんなそんなものだ。
 ところが、気が強い人(意思が強い人)もいるのだ。

拳銃があれば
浅間山麓嬬恋村の山小屋の
燃えさかる薪ストーブの前
早ければあしたの朝
自分の顔を撃って死ねる
リチャード・ブローディガンみたいに

 そうだね、そうかもしれない。
 ここまでは、まあ、ちょっとした短篇小説のテクニックで書いてしまうひとがいるだろう。村上春樹なんかは、書いてしまいそうだなあ。常套句まみれの、繰り返しの文体で。そして、「私(主人公)はなんて正直な人間なのだろう」と、読者に「見え」を切って見せる。
 ところが細田傳造は「短篇小説」では気が済まない。ことばを閉じない。

リチャード・ブローディガンみたいに
死体がみつかるのは一か月たってからだな
ブローディガンは死んで
何をして遊んでいるんだろう

 この最後の「遊んでいる」、これが絶対的に美しい。絶対的に「正しい」遊ぶである。自分を、もうだますことはない。だましようにも、自分が存在しない。それは「究極の遊び」である。究極の「正直」である。
 細田傳造は、少し大岡昇平に似ているのである。
 いろいろなことを書き、それを「正確ではない」と断定し、別のことばにする。しかし、書き直したところで「正確ではない」。どれもこれも、自分に嘘をついている。他者に向けて、見えを切ったことばにすぎない。つまり、嘘である。
 だから、書いてきたことを、全部、ほうりだす。捨ててしまう。
 わかるのは、この詩では、細田傳造は「遊ぶ」について考えたということだけだ。そして、考えたことの「内容」は全部嘘になってしまうと細田は知っているということだけだ。

 詩とは、「考えたこと」は全部嘘。「考えないこと」(考えないときに動くことば)だけは嘘ではないということを具体的に証明することかもしれない。しかし、その証明も、ことばを書くことでしか実現できないのだとすれば、やっぱり、それは嘘。自分をだまし、自分にだまされる嘘、いつでも自分をだますのが人間であることを証明するにすぎないかもしれない。それをどれだけつづけることができるかが、究極の問題として残ることになる。
 「美祢」は「みね」か、それとも「びしょう」と読むべきか。「別称」ということばがでてくるから、ついつい、そんなことを考えてしまうが。「びしょう」だろうなあ。そして「じじい」を「美称(びしょう)」と考えたいんだろうなあ、と想像するのだが。

言葉のみ武器なしじじい皆殺しをかんがえた
動機は純粋である性欲残渣権力成れの果て見苦しい

 そうだなあ。「かんがえた」ではじまらなければ、この詩は、「あそび」になったかもしれない。「かんがえた」からはじまったので、「あそび」になりきれなかったのかもしれない。
 あれこれ書いたが、「拳銃」の最終行が、私はとても好きである。

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com