後水尾院については、近衛家に伝わる『陽明文庫』の資料や禁裏の近くに居た僧侶の日記など、資料が多いと言えるだろう。
これは私の詩であって、論文ではないので、なるだけ平易にしたいのだが、説明しないと分かりにくくなるので、最低限にして資料を引きたい。
「これは私の詩であって」とわざわざことわっている。そうことわらないと、読者は詩とは思わないかもしれない。それを懸念している。
糸井も散文スタイルで書いているが、それを読者が「詩ではない」と思わないことを確信しているだろう。高貝、柏木は行分けだから、もちろん「詩ではない」と読者が言うはずがないと思っているだろう。
これが木村と、糸井、高貝、柏木を完全にわけている。
さて。
それでは木村にとって、詩とは何なのか。
いや、こういうことは作者に言わせてしまっては意味がない。
私が、どう感じるか。
たとえば、おなじ42ページのつづき。
それらの資料を読んでいると「儲君」という今では聴き慣れない単語が出て来る。
これは、元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである。
儲君=皇太子と考えていいのだが、どっこい複雑である。
「聴き慣れない単語」とは知らないことばである。だからこそ木村は調べている。そして「元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである」と説明している。ことばを、いまの、自分の(私たちの)コンテキストのなかでとらえなおしている。ただし、こういうことは簡単ではない。複雑なことが起きるのである。ことばの「意味」はいつでも「イコール(=)」ではない。
ここからは、木村の考えであるかどうかは、わからない。つまり、私の「誤読」を書くことになるのだが。
この「ことば」をとうして「イコールではない」というものの世界へ踏み込んでいく。イコールを求めながら(理解することを求めながら)、イコールではないもの、「ずれ」を見つけ出し、それをつかみとる。その運動そのものを木村は「詩」の体験と呼ぶのである。あるいは「詩」の実践と呼んでもいい。
これを、なんといえばいいのか、実にテキパキと進める。無駄がなく、速度にゆるぎがない。この正確さに、私は引きつけられる。言い直すと、そこに「詩」を私は感じている。ことばが自分の目的に向かってひたすら動いていく。その力に私は「詩」を感じている。
それは、こんな具合に展開する。「八条宮智仁親王添削歌」(67ページ)、後水尾院が若いときに八条宮智仁親王から添削を受けたことについて書いている。先に後水尾院の歌、次に添削された歌を引いている。(行空きと歌番号は省略)
■ふるほどは庭にかすみし春雨をはるる軒端の雫にぞしる
降るとなく庭に霞める春雨も軒端をつたふ雫にぞ知る
■みる度にみし色香ともおもほえず代々にふりせぬ春の花哉
見る度に見しを忘るる色香にて代々にふりせぬ春の花かな
(略)
こうして見て来ると、八条宮の添削が、極めて的確であることが判る。しかも添削に当たっては、なるべく後水尾院の元歌の語句を残して巧く直してある。
事実を積み重ね、そのあとで思ったこと(自分のこころがどう動いたか)を書くというのは「散文」のスタイルである。森鴎外のスタイルである。その散文のなかの、何が「詩」なのか。
「判る」。発見が「詩」なのだ。その「判ったこと」というのはどこで起きているか。木村の「肉体」のなかで起きている。そして、それが「肉体」の外へ飛び出してきている。「わかった(こと)」は後水尾院の歌と八条宮の添削の間にあり、その「間にあるもの」は木村が指摘するまでは「ことば」としては存在していない。「ことば」にした瞬間に存在し始める。ことばは「後水尾院の歌と八条宮の添削の間にあるもの」と木村の「肉体」をつないだのである。その瞬間、それは「歌と添削の間」にあるのか、木村の「肉体」のなかにあるのか、という区別を超越して存在する。
木村は、木村が「判ったこと」に、「極めて的確」「巧く」とことばを重ねている。「判る」だけでは、ことばが止まらなかったのだ。これを「ことばの暴走」と考えれば、多くの「暴走することばの詩」につながる。暴走の仕方がちがうだけで、木村のことばも「暴走」するのである。しかし、それは「判る」ということと関係している。
事実をひとつひとつ確かめ、積み重ねる。そのあとで、「ことば」を「暴走」させる。しかし、その「暴走」はとても小さく見える。これは木村が抑制しているのである。事実を積み重ねることばの動きにも抑制が効いているが、暴走にも抑制が効いている。だから暴走には見えないかもしれない。むしろ、木村は暴走を見せないようにしているとさえ言える。
その拮抗に、私は、さらに「詩」を感じる。
紹介の仕方が逆になったかもしれないが、この詩集は、実は「二ツ森幻視」と「修学院夜話」の二部構成になっている。「二ツ森幻視」は、いわゆる行分け詩である。そのなかの「最後の審判」。
フランス、コンクのサント・フォア教会の「タンパン」
タンパンとは教会の扉の上部の半円形のアーチ部分
キリストの上げた右手に神の国、
下げた左手に地獄の有様が彫られている
十二世紀初めから一一三〇年頃の作品である
シート会の聖ベルナールは先立つクリュニー会の華美さを嫌った
イエス・キリストの清貧な生活に帰れ、ということである
だが、そのシトー会にしてからが讃美歌合唱に血道をあげていた
ロマネスクの時代は「ヨハネ黙示録」の時代と言われる
『新訳聖書』の最後を飾る歴史物語が定着していった
サント・フォア教会へ行った。そこで知ったことを書いている。建物の描写から始まり、信仰の変化について書いている。「時間」(歴史)を人間の変化として見ている。そのことだけが、私に理解できることだ。そして、私は、この木村の「時間(歴史)」と人間を結びつける視点が、木村の文体を鍛えていると感じる。この鍛えられた簡潔な文体は信じられる、と感じる。
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