嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(101) | 詩はどこにあるか

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* (火はそこで語る)

水のながれの空しさを 時に手足をもがれてながれゆくみなし児を

 水にはたしかに「手足」はない。だから「水」を「手足をもがれてながれゆくみなし児」と言い換えているのだが、なぜ「みなし児」なのか。なぜ、おとなではなく、こどもなのか。
 そう考えるとき、「時に」の「時」の意味がわかれていく。
 ひとつは「ある時」、もうひとつは「時間」というものそのもの。
 ここでは「時間」そのものを「時」と読んでいる。「時(間)」が流れることによって「みなし児」の「手足」をもいでしまうのだ。
 「時間」がながれなければ、「みなし児」の「手足がもがれる」という悲惨なことは起きない。
 一回だけ「脇役」のように登場する「時」こそが、この詩の主役であり、「むなしさ」はすべて「時」に起因する。
 それを、また別の主体(火)が語る。これは、すべて主役を隠すためである。



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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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