中村不二夫『鳥のうた』(土曜美術社出版販売、2019年09月20日発行)
中村不二夫『鳥のうた』は一年前の詩集なのだけれど、いまの日本の状況のなかで、ふと思い出した。
巻頭の詩、「独りの旗」。
詩人Kは言っていた 独りはつよいと
その時 ぼくはその意味が分からなかった
今 そのKの言葉が凍った耳を突き刺す
いつのまにか ぼくはKのいる庭に佇む
何度も聞いたその言葉を何度も反芻する
「独りはつよい……」けれどKは
一度もぼくに独りになれとは言わなかった
独りで振る旗は虚しいか 寂しいか
みんなで振る旗は正しいか 尊いか
独りの旗はけっして自分を裏切らない
独りの旗は だれの前でも平等だった
「木島始氏に寄せて」という副題がある。Kは木島のことである。
「強い」と書かずに「つよい」とひらがなで書いている。「つよい」にどういう漢字をあてるかは、読んだ人にまかせている。木島のことばは書かれたことばではなく「言った」ことばだからである。「言った」ことばは、「声」とともに消えていくが、聞いた人の「肉体」に残る。それは思い出すとき、あらわれてくる。それは、こんな具合に。
いつのまにか ぼくはKのいる庭に佇む
このとき、庭には木島はいない。けれど、木島を思うとき、木島は「あらわれる」。この思い出すと、必ずあらわれてくる木島、あるいはことばの、「必ず」を中村は、こんなふうに言い直す。
独りの旗はけっして自分を裏切らない
「けっして/裏切らない」。そういうものが、ある。そういう人が、いる。
それを発見しなければならない。
木島が「一度もぼくに(中村に)独りになれとは言わなかった」のは、「独りになる」ということを中村が自分で発見しないかぎり、それは「独りになる」ということではないからだ。ことばを聞いて、それにしたがうとき、それは「独りになる」ということは違うのだ。
「独りになる」ということ発見するまでには時間がかかる。
ときには、一緒にいた人が死ぬということで、「独り」になってしまうということがある。取り残されて「独り」。でも、これは自分で選びとったものではない。
たぶん人間は「独り」取り残されることを何度か経験して、「独り」であることを感じ、その繰り返しのあとで「独りになる」ということができるのかもしれない。人との別れの経験なしで、「独りになる」ということを自覚する、覚悟するということはむずかしいだろうと思う。
しかし、その「独り」取り残されて、「独り」にさせられてしまったあと、その一種のどうすることもできない「独り」のなかで、別れてしまったひとを思い出すとき、そのひとが「あらわれる」。その瞬間に「独りになる」ことの「意味」が理解できる。
「独り」だからこそ、いま、「そこ(庭)」にいない人(木島)が中村に並び立つのだ。「独り(中村)」が「独り(木島)」を呼び寄せるのだ。そのときの「独り(木島)」は決して「独り(中村)」を裏切らない。逆も言える。中村は、けっして裏切ることなく、木島を思い起こし、自分のそばに呼び寄せる。それは木島であって、木島ではない。それは中村なのだ。
そして、それはいつでも「木島」であるわけでもない。だれででもある。
「だれの前でも平等だった」とは、「だれの前でも独りだった」ということであり、そのとき向き合っている「だれ」かもまた「独り」なのだ。少なくとも木島は「独りになり」、自分の前にいるひとを「独り」として向き合っている。木島の姿勢が他者を「独りにさせる」。
Kはどこからも独りで詩友を作り出した
性別・年齢、キャリアを問わず
アメリカにも韓国の詩人にも手紙を書いた
星条旗でも日章旗でも太極旗でもない
独りの旗はとうめいな平和の旗だった
その周り がれもが風のように集まってきた
人が本当に護るべきものは目には見えない
(それはきっとみんなで振る旗ではない)
「人が本当に護るべきもの」は、この詩の文脈のなかでは「平和」と言い換えることができるかもしれないが、私は、そうではなく「とうめい」と読みたい。「とうめい」だから「目には見えない」と、そのまま受け止めたい。
「目に見えない」ものは、この詩のなかでは、木島が言った「独りはつよい」ということばであり、「庭に立つ木島」である。庭に立つ木島が中村を「独りにさせる」。木島が生きているときよりもさらに強く働きかけてくる。「独り」は、そのとき中村の「肉体」/思想」になる。「思想」を「肉体」として獲得すること。それが「独りになる」ということだ。だかち、それは「どんな思想」であるかは問わない。どんな「性別・年齢」「キャリア」「国籍」も問わないのだ。
中村は木島の「独りはつよい」を引き継いで「独りになる」。こう書くと、中村は木島の「代理人(あるいはコピー)」のように見えるかもしれないが、そうではない。その区別が他人から見えないだけであって、中村にはその区別(自覚)がある。「独りにさせられた」のではなく「独りになる」を選んだのだ。
自覚して、「独りになる」。自分を「とうめい」にする。そのとき、だれかの「とうめい」と重なりあう。そういう瞬間がある。「独りになる」と、そういうことができる。この不思議な体験を「つよい」と呼んでいるのだ。
「独りである」と「独りになる」は違う。「ある」から「なる」へと自己を超えていく。そういう人間だけが「とうめい」の連帯を勝ち取ることができる。を超越してしまう。
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