太田隆文監督「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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太田隆文監督「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(★★★★)

監督 太田隆文

 「ドキュメンタリー」というよりは「インタビュー」。沖縄戦を生き残った人たちの証言と、当時の記録フィルムを合体した作品。
 この証言から、私はふたつのことを学んだ。
 ひとつは、沖縄は「日本本土」の「捨て石」にされた。「防波堤」というよりも、時間稼ぎの「捨て石」。沖縄を守ろうという気持ちは日本軍には少しもなかった。
 その視点(沖縄はどうなってもかまわない、日本本土さえ守れればいい)は、そのまま現在の政権に引き継がれている。
 さらに、この「沖縄捨て石(沖縄防波堤)」の考えは、いまはアメリカと共有されている。当時アメリカが沖縄を拠点にして日本を攻撃しようとしたように、いまは沖縄を中国や北朝鮮を監視する拠点にしている。もちろん、いざというときは「捨て石」の戦場にするつもりでいる。沖縄を戦場にしているかぎり、アメリカ本土への攻撃は遅れる。
 ここには沖縄県民(民族、歴史、文化)への蔑視が潜んでいる。同等の人間とは見ていない。
 これは、私がこの映画から学んだ、もう一つのことへとつながる。
 同等の人間と見ない、というのは、一方的な「人間観」を押しつける教育になる。「理想の日本人」を育てる、という教育につながる。それは簡単に言い直せば「洗脳教育」である。
 天皇を絶対視する。ことばを強制的に統一する。(これは、沖縄だけではなく、朝鮮半島でも行われたことである。ほかの国に対しても行われたことである。)この「ことばの統一」は単に「共通語/強制的に使用させる」というだけではない。
 ことばは、どこの国にとっても(そこにすむひとにとっての)、思想の到達点である。ことばをとおしてしか、私たちは考えられない。ことばを奪われることは考えることを奪われること、批判する力を奪われることである。
 それに関して、非常に興味深いエピソードが紹介されている。濠に避難し、「集団自決/日本軍による強制死」を迫られたとき、アメリカに住んだことのあるひとが濠から出てアメリカ軍と交渉する。アメリカ軍が、住民に「殺さないから出てこい」と呼びかけたことからはじまる交渉だが、彼は、アメリカ軍と交渉する。その結果、その濠に避難していたひとたちは全員助かる。別の濠に避難していたひとの多くは「強制死」の犠牲になる。
 かれは、なぜ、交渉ができたのか。英語が話せる、というだけの理由ではない。他人のことばを聞き、それが真実であるかどうかを自分で考えることができたからだ。どちらの考え方が正しいか、自分で判断できたからだ。こういう考えが育つためには、人間はいろいろな意見を持っているということをまず知らないといけない。そのうえで、自分に何ができるか、どうすれば生きられるかを考える必要がある。そのとき、必然的に「批判」というものが生まれてくる。
 もうひとつ、これに関連して。
 「強制死/集団自決」が手榴弾をつかって、はじまる。しかし、不発弾が多くて、なかなかうまくいかない。そうこうするうちに、一人の母親が「どうせ死ぬにしろ、いまここで死ぬ必要はない。生きられるだけ生きよう、逃げよう」と子どもたちをつれ、「強制死」の現場を脱出する。母親の「本能」といえば本能なのかもしれないが、ここでも力を発揮しているのは、自分で考えること。そして、自分のことばで語ること。母親は自分のことばで、こどもたちを説得したのだ。
 「教育」と「洗脳」は、かなり似通ったところがある。そしてそれはいつでも「ことば」の強制と同時にはじまる。
 ここから、私はこんなことを考える。映画からかなり離れるが、考えたことを書いておく。
 いま、「国語教育」の現場で「文学」が排除され、「論理国語(?)」というものが幅を利かせようとし始めている。社会に流通している「文書」を正確に読み取り、ひととの交渉をスムーズにする、ということが目的らしい。
 だが、人間の「交渉」にはいつも「論理」以外に「感情」もまとわりついてくる。そのまとわりつき方は微妙で、正確に把握するのはむずかしいが、ともかく「感情」にひとは直面する。その「感情」というか、「思い悩み」(ことばにしにくいあれこれ)をことばをとおして学ぶのが「文学」である。「文学」はたしかに「契約書」の内容を正確に把握するには効力を発揮しないかもしれないが、意外な力を発揮することもあるはずだ。「このことばは、どういう意味だろう」だけではなく、「なぜ、いまここで、こんなことばをつかっているのだろう」と疑問を抱く。そこから「契約書」の秘密(隠しておきたいこと)が見えてくることもある。様々なことばを知り、それについて自分で考える力を身につけることは、どんなときでも必要であり、それは「実用以外のことば」に触れることでしか身につかない。
 だから、こんなことも考える。ジャーナリズムには、いつでも「権力からリークされた新しいことば」があふれかえる。「新しいことば」を知っていること、それをつかいこなせることが「正しい」ことのように書かれている。しかし、「新しいことば」は不都合な何かを隠すために考え出されたものであることの方が多い。いままでつかっていたことばでは間に合わない。そのとき、国民をだますために「新しいことば」がつくりだされる。「おまえはこの新しいことばを知らないのか。知らない人間が何を言うか。黙って、新しいことばをつかうひとの言うことを聞け」。こういうことが平然と行われる。
 最近では「新しい生活様式/3密回避」というのがある。どこが新しいのか。不便なだけだろう。大勢が集まり、大声で議論し、より親密な関係をつくりだしていく。これは「民主主義」の理想ではなかったのか。だれもが自分の意見を言う。意見を聞いて、はじめてその人の生きている現実がわかる。現実をどうかえていけば、みんなが幸福になれるか。それを考えるのが「民主主義」である。その、人間の基本的な生き方を否定するのが「新しい生活様式/3密回避」である。ひとは権力によって「分断」される。情報(ことば)は、権力が一方的におしつける。それが「正しい」かどうか、いろいろな立場で検証してみないとわからない。様々なひとが「自分の立場」を自己主張し、その自己主張に耳を傾けないと、「政府情報」が「正しい」かどうかわからない。安倍政権がやろうとしているのは、この「国民には何が起きているのかわからない」という状況をつくりだして、一方的に支配力をつよめるということである。
 「PCR検査をしない」「GOTOキャンペーンは経済を救う」。そこには「情報操作」が行われている。「情報」とは「ことば」である。限られたことば、政権にとってつごうのいいことばだけがジャーナリズムをとおして、強制的に流通させられている。
 もっと手の込んだ「情報リーク」というものもある。新聞の片隅をつつくと、そういうものがどんどん出てくる。
 どんなことでも、自分のことばで言い直す、ということが必要なのだ。もちろん、個人が知っていることは限界がある。だから、間違える。しかし、この「間違い」が必要なのだ。「間違い」つづけるかぎり、「政権の言いなり」にはならない。「洗脳」されることはない。「間違い」は時間をかけて、日々の暮らしのなかで、ひとつずつ正していけばいい。いずれ、「正しい」に出会う。それまでは、自分のことばを動かしつづけるだけである。
 この映画には、「自分のことば」で語りつづけるひとが次々に出てくる。そして、絶対に「自分のことば」以外では語らないを、決意している。ことばの強さが、この映画を支えている。そういう意味でも、この映画は「ドキュメンタリー」ではなく「インタビュー」であることをもっと強調してもいいのではないのか。
                 (中洲大洋スクリーン3、2020年08月20日)