吉増剛造「筆舌に尽くしがたい、救いのようなもの」 | 詩はどこにあるか

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吉増剛造「筆舌に尽くしがたい、救いのようなもの」(「イリプスⅡ」31、2020年07月10日発行)

 吉増剛造「筆舌に尽くしがたい、救いのようなもの」は、今野和代の『悪い兄さん』の書評である。書評であるとわかるのは、副題に今野の名前と詩集のタイトルが書いてあるからである。しかし、何が書いてあるか、ぜんぜんわからない。わからないけれど、吉増が今野の詩集を読んでいる、ということだけはくっきりと伝わってくる。
 読点「、」ばかりがつづく長い書き出しの後半(中盤?)、

わたくしもそっと、手を出してみる、そんな小さな旅に出ることにする、……。
ここで初めて「。」をおいて、言葉の歩みをとめてみると、予感として止むに止まず、どうしてもいいたいことの“しるし”のようなものが、たとえば四行目の“少しく裂けて”あるいは六行目の“擦って過ぎて来た”のあたりに、「今野和代紀行」or「悪い兄さん紀行」の、こちらのどうしてもそこで佇んでしまっているらしいorそこで立ち往生してしまっている、わたくしめの詩の紀行の無様な…姿

 詩集を読むことを「旅」と呼び、その書評を書くことを「紀行(文)」を書くことと捉えなおしているのだが、そういう「意味」とは関係なく……。
 私は「。」を書いて、そこから、それまでに読んできたこと、これから書くだろうことを予感している、その「呼吸」に引きつけられた。

 ちょっと吉増を真似たような書き方になってしまったが、これは私の呼吸が吉増に重なったということだろう。

 私は「読む」ということは、相手の「呼吸」にあわせることだと思っている。一緒に歩いている(走っている)ひとに呼吸をあわせる。それは、私が相手にあわせているのだが、一度呼吸があってしまうと不思議なことが起きる。
 相手の「呼吸」をリードできるのである。
 いっしょに「呼吸」をあわせて、しばらく走る。完全に合致する。そこから、自分の「呼吸」で走り出す。ピッチをあげる。すると、相手がそれについてくる。相手が私の呼吸にあわせてくれるのである。
 これは「読書(ことばを読む)」でも同じである。
 吉増の「呼吸」は最初乱れている。今野の「呼吸」をつかみきれない。それにあわせようと、もがいている。その「もがき」をいったん読点「。」で区切ってしまう。すると、不思議なことに、吉増自身の「呼吸」の「欠点(?)」のようなもの、あるいは「長所」のようなものが自覚でき、そこから「呼吸」をあわせる「コツ」もみえてくる。
 あ、ここにあわせればいいんだ、と発見する。
 それが、“少しく裂けて”“擦って過ぎて来た”である。その「呼吸(息づかい/音)」になら、あわせられる。それは吉増自身の「呼吸」にほかならないからだ。
 そうして、同じような「呼吸」を探し始める。おなじような「呼吸」を拾い集める。そうすると完全に「呼吸/息づかい/音」が一致する。一致を確認して、吉増は「呼吸」をリードし始める。加速する。

「長い橋」が、どうしてか気になる、……。おそらく、無意識に「戎橋」とか「心斎橋」がざわざわと遠く能裏をかすめている筈で、あるいは「曽根崎心中」のお初の面差しも明滅していたのかもしれなかった、……。
  ながい橋を渡る
  ザンバラ髪の人が
  白い イヌを 連れて
  むこうから歩いてくる
  いき倒れの魂が浮遊する空
  うつろな 半欠け のまま       「ながい橋」
そう、……。今野和代の幻視の性質…というべきか、本質というべき“霞性のようなものをたしかに呼吸しているものおと…”が“半欠け のまま”たしかに顕って来ていて、

 という具合だ。
 今野の本質を“霞性のようなものをたしかに呼吸しているものおと…”と定義した上で、それが「“半欠け のまま”たしかに顕って来ていて」というとき、「半欠け」を「完全」にするために、その世界へリードしていくのが吉増だとわかる。
 もちろん、吉増のリードにまかせて「半欠け」から「完全」になってしまえば、それは今野ではなくなる。しかし、吉増にリードされていくかぎり「半欠け のまま」なのである。そして「半欠け」であることで、今野の世界が不思議な魅力を発揮する。
 あ、このまま走り続ければ、今野は「呼吸」が楽になり、ゴール寸前で最後の力を振り絞って吉増を抜き去る。そういう「マラソンレース」を見る感じだ。
 ずーっと「リードされている」(追っている)ふりをして、力を蓄え、最後にふりきるのだ。
 つまり、「半欠け」が、大逆転で勝利するのだ。

 今野に追いつき、リードしつづけ、最後に抜き去られたことを、吉増は、こんなふうに書いている。

存分に、……その口中or詩の奥行に、宿るようにし得たことを、……告げることのかなうところにもまた、わたくしも辿れました……の、でした。

 いやあ、おもしろい。
 吉増は、こんな「正直」な詩人だったのか、とびっくりした。

 




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