館路子「夜半、雨の降る中へ送り出す」は「正体不明」のものについて書いている。
夜半の
雨音の籠もる部屋の片隅に
病葉とおぼしきものが一枚
どこから吹き込んだものかと訝りつつ
拾い上げようとして身をかがめると
奇妙なことに
傍らの子猫がひどく警戒する風情でくっくっと鳴く
くっくっ
しかし鳴いているのは子猫ではなくて
朽ちたような葉の
眼も口許も見当たらない肉化した(ような)一枚が
音とも声とも推測しがたく身をふるわせて鳴いているのだ
進化の途次か退化のそれか
ともかく異形
摘まみ上げようとした手をとめて
思わず古語でつぶやく(口籠もりながら)
ただの生物ではあるまじ
括弧内に閉じこめられるかたちで補われている(ような)(口籠もりながら)は何だろうか。それこそ思考の「口籠もり」か。そうではない、と思う。これは、何かに頼っているのだ。何か、とは「ことば」だ。それも「自分のことば」というより、「他人のことば」とも言うべき、「ことばの力」に頼っているのだ。
それは「古語」の力。自分から進んでそれを口にするのではなく、自分のことばではたどりつけない何かがあって、それを「古語」に頼んで、いま、ことばにするのだ。
(ような)は、古語というほどでもない。しかし、「肉化した一枚」と「暗喩」にしてしまうと何かが違う。「ような」という「直喩」なら許されるかもしれない。そういう意識が動いているように感じられる。「口籠もる」のは、それが館の「肉体のことば」ではなく、「知識のことば」だからだろう。いや、「知恵のことば」と言えばいいか。目で(頭で)読んで理解していることばではなく、「耳」で聞いて、つまり暮らしのなかで「こう言うんだったな」と思い出している感じ。両親か、祖父母か知らないが、館の肉親のだれかが「……ではあるまじ」と言っているのを聞いたことがある。その「記憶」のことば。昔の人(?)は、こういうとき「……ではあるまじ」と言うことで、その存在が存在として「いま/ここ」にあらわれてくるのを避けていた。存在を「ことば」の領域にとどめておいて、どこかへ放り出してしまう。正確に言い当てないことで、自分とは無関係にしてしまう。それが「……ではあるまじ」なのだろう。
ここでは館は、過去からつづいている「肉体の力(いのちの力)」というものに、「古語」で触れ、それにすがっている。梅爾(また、この詩人を出してしまうが)が「一億年」と呼んでいる「肉体化された時間」に触れているのだと思う。
「一億年」と「デジタル」の表現では言ってしまえるが、しかし「一億年」がどんな時間であるかを、梅爾は知らないだろう。知らないけれど、知ってると「肉体」でなら言える。それが「女・性(おんな・せい)」なのだと思う。
この「知らないけれど知っている一億年」のようなものを、館は、「解読されない言語」「伝わって来ない言葉」と言っているように思う。
解読されない言語がまだ世界には在って
その一種で嘆いているようだが
わからない
伝わって来ない言葉に替えて
感情の在り処を読み取らなければなるまい
不安、悲しみ、恐怖感など
かたちにならないものがその身体の中に渦巻いてはいないか
くっくっ
「わからない」けれど、「わからない」ということ(ことば)を媒介させて、それを「肉体(館は、身体と書いている)」で引き受ける。自分の「肉体」のなかに引き受ける。
もし、館が「くっくっ」という声を漏らすとしたら、それはどういうときか。「ただの生物」ではなく、「不安、悲しみ、恐怖感」を抱え込んでいる「肉体」としての存在なのだ。こう、想像できるのは、館に「くっくっ」に似た声を発したことがあるからだ。ことばにならない「不安、悲しみ、恐怖感」をかかえて「くっくっ」。それは、館の「肉体」のなかで渦巻いている。そういう「時間」を館は知っている。
そしてそれは館が知っているだけではなく、両親や祖父母(古語につながるいのち)が、あるとき、館の前で見せた「肉体の姿(いのちの姿)」そのものだったのだろう。館は、それを「古語」を引き寄せるようにして、館の「祖先の肉体」から引き寄せ、引き継ぎ、そうすることで夜の不思議な訪問者と和解しようとしているように感じられる。
「ただの生物ではあるまじ」の「あるまじ」は「ことば=意味」というよりも「声」なのだ。「声」を発することで、「声」の力で、不吉な「肉体(いのち)」を避けようとする「いのり」のようなものだ。
「いのり」と思わず書いてしまうのは、「私は、おまえを殺さない。逃がす。だから、私を助けてくれ」と言っているように聞こえるからだ。
そんなことを思いながら、詩を読み進むと、最後にこんなことばが出てくる。
雨の中へ、街路灯のあかりの果てに拡がる闇へ
気味の悪い思いを消せないままに送り出してしまった
爾来、遭遇することはない
が、気懸かりなほど寂しいいのちのひとつ(だった)
「いのち」。館が「肉体」で引き受けたのは「いのち」だったのだ。そして、「だった」とはいいながら、それは「過去形」になってしまっているわけではない。括弧で隠しているように、過去だけれど、いつでも「いま」になって噴出してくる何かなのだ。「……ではあるまじ」という「古語」のように「過去」だけれど、「過去」にとどまり続けているのではなく、ふいに「いのち/肉体」が揺さぶられるようなときがあれば、また「いま」となってあらわれるものなのだ。
*
「ことば」と「肉体」の、この「時間を越える交渉」を田原は「無題」の後半で、こう書いている。館が「古語」と呼んでいるものを、田原は「母語」と呼んでいる。
10
漢語は
あなたの歴史の原形
和語は
あなたの記憶の痛み
11
一篇一篇の詩は
母語に昇ってくる地平線
起点から
終りのない終点へと延びてゆく
この「無題」には「高銀に」というサブタイトルがついている。私は「高銀」という人を知らないのだが、「10」の部分から想像すると、韓国の人だろう。詩のなかには「漢江」という地名も(川の名前)も出てくるから。その人は、韓国語を生きると同時に、漢語の精神を引き継ぎ、日本語も身につけている。(身につけさせられた、の方が正しいかもしれない。)しかし、「母語」はやはり韓国語なのだ。「母語」を「肉体」で引き継ぐとき、高銀は「終りのない終点」を生きる。ことばの運動が、どこまでもつづいていく。「一億年」と言わないのが、たぶん、田原の「男・性(おとこ・せい)」というものであり、それを田原は高銀のことばにも感じているのだろう。
で。
ここから、私は飛躍するのだが、「肉体」をどう「ことば」と関係づけるかというとき、男と女は、やはり違うのだと思う。
2
灯りが
馬の体内で明るく灯る
その蹄をふるう嘶きは
あなたの詩篇に響いている
「馬」という明確な動物(昔は生活に密着していた)の「体」が象徴のようにして動いている。こういう象徴の作り方は、田原にとっては「古語(古典)」というよりも「母語」の動きなのだ。田原にとって「肉体」は「象徴」を引き受けるものなのだ。「象徴」を引き受けることで「ことば」と合体するものなのだろう。
だから、
4
古木にかけられた空っぽの巣は
象徴性が失われ
鳥の帰りを待っている
漢江岸辺の前哨屯所が
水の流れを見送っている
卵(あるいは雛)のいない空っぽの巣は、「象徴性」を持たない。そこに「いのち」がないからだ。
人間と動物の「肉体」を「象徴」を手がかりにして結びつけ、漢詩(母語)と一体になるように、田原は田原と高銀の「肉体」を「ことば」に象徴化することで結びつけ、一体になる。象徴をつかい「肉体」を表現するという「母語(漢詩)」の伝統の中で一体化する。
7
匿名の闇討ちが矢を突き立てるのは
肉体ではなく
良識なのだ
時間の鏡の中で
嫉妬と騙し討ちは
かならずその正体を現すのだ
「良識」とは「ことば」である。「正体」とは「ことば」である。田原は「ことばの肉体」を引き受け、引き継ぐ詩人である。ことばの肉体は象徴となり、「母語に昇ってくる地平線」となる。
そして、
12
あらゆる川は一つの方向へ流れる
あなたが見守る漢江だけは
絶えることがなく
どんなところへも流れていく
この最終連は象徴的だ。梅爾や館がさまざまな「いのち/肉体」を平然と受け入れることで「一億年」生きるのに対して、田原、高銀は「ことば/肉体」を引き受けることで「時間」というよりも「空間」的に越境していくのである。ここには、日本語で詩を書く田原(おそらく高銀も)の意識が無意識に反映しているのかもしれないが、とてもおもしろく感じた。
ここに「見守る」という「ことば」があることにも注目した。「見守る」とき、梅爾は自分自身ではなくなって、他者に寄り添い動いていくが、ここに描かれている高銀はことばを「一つの方向へ流す」というところまでいっしょにいるだけで、それから先は「流れ」にまかせている。寄り添い、いっしょに動いていくわけではない。
「終りのない終点」まで動いていくのは、あくまで「ことば」なのだ。「母語」のなかに生きている「いのち」なのだ。これは同時に、田原の生き方なのだ。
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