杉本真維子『三日間の石』 | 詩はどこにあるか

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杉本真維子『三日間の石』(響文社、2020年06月25日発行)

 杉本真維子の「ことば」は私には非常に読みにくい。
 きのう、小説の書き出しだけを引用した村上春樹の対極にある。村上春樹の文章は、読み始めたら一気に読むことができる。読むスピードがだんだん加速していく。
 杉本のことばは、そんなふうには読みすすめられない。
 「けやきに抱きつきに」の最後の一文。

私と彼らは、それっきり二度と会うことはないかもしれないが、別れることもないような気がした。

 これは、非常に美しい。この一文を読むためにこの一冊があるのか、と思う。
 しかし、その一文を含む最後の一段落。

 そのとき、彼らがとても気になったのに、立ち去るときはなんの躊躇もなく、軽く会釈をすることもなく、ひたすら前だけを向いていた自分が不思議だった。そんな立ち去り方は今までにないものだったから。私と彼らは、それっきり二度と会うことはないかもしれないが、別れることもないような気がした。

 どうだろうか。
 私には読みにくいのである。
 なぜなんだろうか。
 こういうことは「説明」がしにくいし、「説明」しても、他人に伝わるかどうかわからないが……。
 「彼らがとても気になったのに」はふつうならば「(いまは)気にならない」というかたちで終わる。村上春樹なら、絶対に、そう終わる。しかし、杉本は「気にならない」ということばを省略し、「自分が不思議だった」とことばを閉じる。どこかで「ことば」が折れて、その折れた部分を「客観的」に描写する。
 「自分が不思議だった」。
 なぜ自分がそうしてたのか、自分で自分のしていることが「わからない」。こういうとき、私は、「わからない」ということばを書く。もし、「不思議」ということばをつかうにしても、「自分のしていることがわからずに、不思議な気がした」と書く。「わからない」は省略できない。しかし、杉本は省略し、さらに「気がした」も書かない。「わからない」も「気がする(気がした)」も「主観」だが、「不思議」は「主観」とは少し違うように感じる。自分のことではない、という印象が私にはある。あえていえば「客観」なのである。
 「客観」のさしはさみ方が、どうにも私にはついていけないのである。「客観」が「主観」をぽきぽきと折りつづけながら、その「折り方/折れ方」を「主観」として書いているように見える。
 切断と接続。
 これは、詩であろうと散文であろうと、ことばの運動であるかぎり、切断と接続なのだが、その「主体」が「主観」と「客観」をごちゃまぜにしている。
 そのために、私は、いま読んでいるのは「客観」なのか、「主観」なのか、というところにつまずき、簡単に読み進めないのだ。

彼らがとても気になったのに、(主観=気になる)
立ち去るときはなんの躊躇もなく、(主観の客観化=主観なら「躊躇せず」になると思う)
軽く会釈をすることもなく、(客観=行動の描写)
ひたすら前だけを向いていた (客観=行動の描写)
自分が不思議だった。 (客観?=主観を傍観している、外から見ている)

 強引に「分類」すると、こういう感じ。
 「主観」から出発し、「主観」を「客観」として提出するというのが、どうも杉本の「文体」らしいのである。
 そして、もしそうだとすると、私が感動した「私と彼らは、それっきり二度と会うことはないかもしれないが、別れることもないような気がした。」は「気がした」というかたちで「主観」を前面に押し出した、非常に珍しい文章ということになる。 

 で。

 この私にとっては非常に奇妙な文体(日本語なのに、日本語としては聞こえない文体)を言い直す便利なことば(キーワード?)がどこかに隠れていないか、と探してみると。あるのです。「花の事故」。

かわいそう、という普段はあまり使わない形容が、換言できないものとなって、口から零れつづけた。

 「換言できない」。杉本は、どのことばも「換言できない」ものとして書いている。ことばを書く人はみんなそうだというかもしれないが、私はそうは考えない。「ことば」というのは、私にとっては「換言しつづける」ためのものである。あるいは「換言しつづけなければならない」ものである。
 私の大嫌いな村上春樹は、ただひたすら「スムーズな換言」をこころがけている。私の大好きなソクラテス(プラトン)もひたすら「換言」しつづけている。それを私のことばで言い直すとどうなるか(私が行動するとどうなるか)しか言っていない。「ことば」を「肉体」に「換言/還元」できないものは「ことば」ではない、とソクラテスは言っているように思う。
 私は、そのソクラテスを「先生」と思っているので、「還元できないことば」を差し出してくる人、その「文体」が、どうも苦手なのである。
 ちょっと言い直すと、感動したと書いた「私と彼らは、それっきり二度と会うことはないかもしれないが、別れることもないような気がした。」でさえ、書かれているのは「気」であって、「肉体」ではないといえる。「気」は、私のことばの分類では「肉体」に属しているけれど、杉本は「肉体」とは考えていないだろう、と思う。
 だから、私の「感動」は「誤読」なのである。
 私はいつも他人の文書を「誤読」する。どんなふうに「誤読」したかを、ことばで言い直すというのが私の書いていることである。

 杉本にとって「ことば」はあくまで「ことば」なのだろう。だが、私にとって「ことば」は「肉体」であり、「肉体」は「ことば」である。それは区別ができない。
 「ことば」至上主義のような、「ことば」のひとつひとつが「換言できない」ものとして動く「文体」を読むのは、私には非常につかれる。村上春樹の「文体」はひたすら加速するのであきれてしまうが、杉本の「文体」は絶対に加速しないのでつかれるといえばいいのだろうか。








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