一日だけ ぼくがどこかに消えることがある
「どこか」とは「どこ」を指しているのか。「ぼくの空間」の「どこか」なのか。そのとき、世界はどうなるか。
庭には
野菊の花が露にぬれている
ここで終われば「俳句」になる。「ぼく」が消えて「野菊」になる。あるいは「露」になる。「ぬれる」という動詞になる。すべてが「一つ」になる。「遠心と求心」。
しかし、嵯峨は「俳句」を拒絶して、このあとことばを動かしているのだが、それは逆に「俳句」を説明することになっている。だから、その二行は引用しない。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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