嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(37) | 詩はどこにあるか

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ぼくは未知のところで生れ ぼくの知っているところで終るだろう

 「知る」は「体験する」と言い直すことができる。
 生まれることで体験がはじまり(知るがはじまり)、死ぬことで体験が終わる(知るが終わる)。
 しかし、逆に考えてみることもできそうだ。
 「どこで、いつ」生まれたか、ひとは知っている。しかし「どこで、いつ」死んだかは、その人は知らないのではないのか。少なくとも、それを「語る」ことはできない。だから、それは「知識(知る)」にはなり得ない。
 ひとが「自宅で死にたい」というのは、死の先は何もわからないから、わからなくなる瞬間までは「知る」のままでいたいということかもしれない。
 こんなふうに「知る」ということにこだわりつづけなければならないとしたら、人間というのは、なかなかつらい生きものだと思う。






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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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