ある意図になる習作
はるかに高い空 その直下に並んでいる多くの窓
真昼の窓にあつまつてくるぎらぎらする夏
夏の光の強靱さは「ぎらぎら」としか言いようがない。そして、この「ぎらぎら」を説明するのはむずかしい。「きらきら」ではなく「ぎらぎら」というとき、何が違うのか。もちろん光そのものも違うのだが、受け止めている私自身の感覚も違ってはいないか。「きらきら」が無機質なのに対し、「ぎらぎら」は有機質な感じがする。つまり「肉体的な」感じが。「あつまつてくる」ということばが、さらにそういう印象を駆り立てる。私のなかに集まってくる。いや、私のなかの何かを集めるように(凝縮させるように)、あるいは剥き出しにするように、そこに存在するもの。
光(夏)がぎらぎらと存在するのか、私がぎらぎらした存在になるのか。
なにも映つてゐない新しいフイルムのような一つの窓
私は、そんなふうに生まれ変わる。何かを映し出し、生み出す新しいフィルムに。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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