嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(53) | 詩はどこにあるか

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対話

ぼくから言葉がうまれないのは
去つていく遠い地が失われているからだ

 矛盾というか、あいまいさに満ちた詩だ。
 「常識的論理」では、何かが失われるとき、ひとは悲しみに沈む。こころが動かなくなる。ことばも、どう動かしていいか、わからない。
 そして、この「失われる」というのは、何かが自分から「去る」(去っていく)と言い直すことができる。もし、自分から去っていくものがない、自分には失われるものがないとしたら、そのときひとは「よろこび」につつまれるだろう。
 もちろん「よろこび」のためにことばを失うということはある。しかし、嵯峨が書いているのは「よろこび」ではない。逆である。

やはや ぼくはさびしささえ失つたのだから

 人が生きるには「さびしさ」が必要なのだ。





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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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