嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(49) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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* (ぼくの魂しいのなかで)

大きな梯子が揺れはじめた
その日から友だちからしだいにぼくは離れていつた

 「友だちが」離れていくのではなく、「ぼくは」離れていく。それは、そして「魂しい」のなかで起きることである。外見上はいっしょにいても「魂しい」が離れていく。そういうことがある。
 「魂しい」のなかに「梯子の揺れ」が「離れる」ということなのだから。「揺れる」は「固定化しない」ということであり、「固定化しない」ということが「離れる」ということなのだから。この「魂しい」のなかの動詞、「固定化する/固定化しない」は、他人(友達)にはわからないことなのだから。
 あるいは、この詩は「なか」を「動詞」として読み直すことも必要だろう。「なか」とは「隠す」とか「入れる/入る」という動詞と親和力がある。そして「隠す」ということが「離れる」でもある。
 「ぼくは」「梯子が揺れはじめた」を「隠す」ことで、友達から「離れる」のだ。




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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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