嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(48) | 詩はどこにあるか

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* (ぼくはだれも愛さないし)

だれからも愛されなくてもいい
しかし骨ぬきになつたぼくの上を流れる川の川かみは
いつも美しい夕ぐれであるように

 「骨ぬき」は「愛さないし」「愛されない」を言い直している。つまり、比喩だ。
 「ぼくの上を流れる川」も比喩だろう。しかし、なんの比喩であるかは、この詩からはわからない。「流れる」という動詞に注目して「時(時間)」と考えてみることができる。「時間」だからこそ、「夕ぐれ」ということばがつづいて出てくるのだろう。
 「時間」は個人に関係なく、また場所にも関係なく、いつでも「流れる」。この究極の「客観的存在」は、人間を「虚無」に陥れるかもしれない。「美しい」ということば、それがどのような内容をもっているかが示されない限り、また「虚無」でしかない。「川かみ」は「源」。それを「虚無」で飾りたてている。
 「愛さないし」「愛されない」という「虚無」が、そういう比喩とことばを動かしている。




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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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