2020年03月02日(月曜日) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

嵯峨信之の詩「そこへ連れていつてくれ」にこういう行がある。

言葉ではあらわせないところ
想いもとどかぬところ

 「言葉」は不思議だ。ことばであらわせないことも「言葉であらわせない」とことばにすることができる。矛盾している。「想い」も同じだ。「想いもとどかぬ」は「想い描くことのできない」である。しかし、そういうことを「想う」ことはできる。
 「言葉」と「想い」は、この詩では入れ替え可能である。それぞれが、互いの「比喩」になっている。
 「あらわす」「とどく」も入れ替え可能である。
 そして、詩は「名詞(言葉/想い)」ではなく「動詞(あらわす/とどく)」に重心をおいて読んだ方が、肉体に迫ってくる。言葉も想いも、届けるものである。届いたときだけ、そこに何かが「あらわれる」。
 他動詞/自動詞が、そのとき交錯する。「肉体」そのものになる。ことばはかわっても、AからBへと動いていった「もの」は一つだ。
 「もの」はそのとき「思想」になる。
 あるいは、こういうべきか。人と人との間を行き来する何か、それだけが「思想」である。行き来しないものは「思想」ではない。そして、それは行き来するだけではなく、その行き来をささえる「肉体」でなければならない。ほんとうは「肉体」が行き来しているのだ。「肉体」がいれかわる、というときが「思想」が完成するときなのだ。