嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(27) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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* (夢は)

魂しいの内側をすべつて
夜明けは
魂しいの外側から明るくなつてくる

 「魂しい」ということばを「肉体」ととらえれば、この詩は、ごくふつうの体験を書いているように思える。朝、太陽が射してくる。目がさめる。外は明るく、夢は肉体の闇のなかへ隠れていく。
 しかし、それではおもしろくない。
 「夢」と「夜明け」、「内側」と「外側」を入れ替えて読んでみる。
 「夜明けの明るさ」の方が「肉体の内側(魂しい)」に射しこむ。それに誘われるようにして「肉体の外側」に夢があふれ、「肉体(魂しい)」をつつむ。
 そうすると、詩は、希望の声になる。
 嵯峨が書こうとしているのは「希望」ではなく、一種の「失望(喪失)」なのだが、絶対的な「絶望」は感じられない。だから、私は「絶望」の対極にあるものを夢想する。









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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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