嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(22) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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* (ふるさとというのは)

そこだけに時が消えている川岸の町だ
そこの水面に顔をうつしてみたまえ
背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから

 「そこ」ということばが指し示す「場」が、わかったようで、わからない。どのことばにも、こういうものがある。英語の「there is」の「there 」、フランス語の「il y a」の「y 」に似ているかもしれない。意識の「奥」にある「そこ」。無意識に思い浮かべる「そこ」。
 「背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから」という行が「意味深長」というか「意味」をくすぐるので、そこに目が向いてしまうが、詩は「意味」ではない部分にこそ存在すると、私は思う。
 「肉体」の奥、ことばにならない何かを刺戟するのが詩だ。

 (余談)
 しばしばフランス語の「il y a」が詩を語るときに「引用」される。「il」は「彼」、「a 」は「持つ(avoir )」。「もの」があるとき、「彼が持っている」というのは「独特」である、「彼」が主語になるのが日本語、英語と違っているという「文脈」で。
 私は初歩の初歩のフランス語しか知らないが、変わっているのは「y 」の方である。いったい、「y 」って、どこ? 「on y va 」「allons y」「j'y vais」と言われたとき、「どこへ?」と聞き返したら、きっと奇妙な顔をされるだろう。
 この「y 」はスペイン語になると「hay 」という活用と「脈絡」を持っている。「かれは持っている」は「el ha 」だが、「もの」が「ある」というときは「haber 」が単独で「hay 」という形になる。無意識(?)の「y 」の名残のようなものだ。
 無意識が指し示す「そこ」というものが、きっとどの国のことばにもあるのだと思う。そういうものが、嵯峨のこの詩にもあらわれている。

 ここに書いたことは、あくまでも、余談というか、知ったかぶり。私はフランス語もスペイン語も、初歩の初歩でつまずいた。その昔、有田忠郎のフランス語の授業を受けたが、長い聞き取りの問題があって、その最後が「Je suis fatigué」だった。「谷内君、できたかね」と言われて「Je suis fatigué」しか書けませんでした」と答えて、笑われてしまった。それ以来、フランス語は知らない。スペイン語は完全な独学、NHKのラジオ講座の「入門編」を卒業できない。







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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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