嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(15) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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* (ぼくは何にも阿ねらず 何ものをも見捨てなかつた)

それでも掌のなかは
今日もいつもの空しさばかりである

 「掌」は「こころ」の比喩である。「掌のなか」の「なか」が比喩であることを強調している。
 なぜ「掌」はこころの比喩になりやすいのか。
 私たちが手をつかって仕事をするからかもしれない。手を使わない仕事はたぶん、ない。手は道具を媒介にして世界につながる。手を通して「自己拡張」していくのが人間なのかもしれない。
 また、手と同じように、人間は足をつかう。詩は、こう閉じられる。

ぼくの国の裏通りによく似た通りを
ぼくは何の屈託もなくひとりその道を歩いて行こう








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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