森永かず子「いつか夢になるまで」、井上瑞貴「森林区」 | 詩はどこにあるか

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森永かず子「いつか夢になるまで」、井上瑞貴「森林区」(「水盤」20、2019年12月25日発行)

 森永かず子「いつか夢になるまで」を読んでいて、私は、ふいにとまってしまう。

短い人生のなかで
ひとはどうして
孤独や後悔や絶望を
囚人のように
いつまでも引きずって
歩くのだろう

それは笑っていても
疲れて眠るときも
やわらかな獣のように寄り添うので
つい手を伸ばして
撫でてしまうのだ
その生温かさが
わたしの生きた時間だと
気づかないまま

 一連目、「ひとは」と書かれている。主語は抽象的だ。まわりのことばも抽象的だ。こういう「意味」の強いことばは、詩になりにくい。「意味」というのはひとそれぞれのものであって、つまりあくまでも個人的なものであって、「一般化」しにくいからである。
 しかし、逆説的になるが、それでは「一般的意味」が共有されやすいかというと、そうでもない。
 「意味」は個別的でなければならない。絶対に他人と共有できない「意味」が書かれたときだけ、読者は、それを共有する。「あ、これが、私の言いたかったことだ」と気づくからだ。
 一連目には、そういう「ことば/個別的な意味」が書かれていない。
 二連目は、どうか。
 やはり「個別的な意味」は書かれていない。そして、そのかわりに「わたし」が突然出てくる。「わたしの生きた時間」という形で。
 私は、ここでつまずいた。
 もし、ここに「わたし」というこばがなければ、それはそれなりに詩になり得たと思う。「だれの時間」と特定されていないので、それを「わたし(森永)」の時間と思わず、私(谷内)自身の時間と思い込むことで、私自身が覚えていることをことばに結びつけることができたと思う。つまり「共有」が可能だったかもしれないと思う。私なりに「孤独」や「後悔」や「絶望」を思い出すことができたかもしれない。
 しかし、ふいに登場した「わたし」がそれを奪い去っていく。
 私に対して、何かを差し出すのではなく、差し出した物を、これは自分の物という具合に森永自身が奪い取っていく。
 なんだろう、これは。
 まるで、「おいしい料理ができたよ」と言われたので言ってみたら、それは私が食べるための物ではなくて、森永が自分で食べて見せるための物だった、という具合だ。

けむる雨のなか
紫陽花が咲いている
廃屋の庭で
ぼんやり灯りながら
冷めていく時間を
数えてきた
過去も未来も
今ここにない時間
みんなまぼろし

 と、ことばはつづいていく。それが「わたし(森永)の生きた時間」。
 それはそれで「意味」として完結しているが、完結しているからこそ、詩になっていない。
 もし一連目を「ひとは」ではなく「わたしは」と書き始めていたらどうなったか。あるいは二連目を「わたしの」ではなく「ひとの」と書きつづけていたらどうなったか。
 ここに考えてみなければならない問題があると思う。
 主語をどうするかは、書き手のこの身の問題なのかもしれないが、私は、この詩のように「ひとは」とはじめておいて、その「ひと」を代表するのが「わたし」であるというような「論理」には、どうもなじめない。
 「わたしは」とはじめて「ひとは」とつないでゆくことにもなじめないが。



 井上瑞貴「森林区」と比較してみる。「ひと」「わたし」の登場のさせ方が違う。

追うかぎり遠ざかる木々の葉を除去しなければなりません
小鳥たちの小さな空腹が鳴き声になって
その輪郭はひとびとの斜面をあやしくかたどり
散らない花が散る花にまじって咲いているのがみえたのです
(略)
なにひとつ終わることのできない個人の終着駅で
何度も聴いた音楽をはじめて聴きながらわたしは歌います
声を使わずに
しかも朗々と

 「ひと」といっしょにあることばが、私(谷内)の知らないことばである。「ひと」は「抽象的」だが、それといっしょにあることばは抽象的であると同時に、井上だけの肉体を通ってきたものであることがわかる。「孤独」とか「絶望」のように「辞書化」されていない。井上の肉体を通ってきているから「個人」が「ひと」から切り離された存在であることがわかる。そのうえで「わたし」という呼称を井上が選択していることがわかる。
 さらに「何度も聴いた音楽をはじめて聴きながら」「声を使わずに/しかも朗々と」という矛盾が「わたし」を個別化する。
 ここで井上が愛用している「矛盾」は辞書に載っているような意味での矛盾ではない。対立する存在ではない。つまり、力が拮抗して動けないという状態ではない。井上の「矛盾」は、既成のもの(すでにあるもの)を否定し、それをまったく違うものにしてしまうという意思の運動のことである。
 何度も聴いているとしても、それとは違う聴き方を選びとって、はじめての状態で聞くのである。初めてにするのである。声をつかって朗々と歌うということは多くのひとがする。だが、井上は声を使わないを選ぶのである。それが他のひとに「朗々と」したものとして聞こえるかどうかは問題ではない。他人がどう思おうが、井上が「朗々」にしてしまうのだ。
 井上は他人を拒絶することで抒情を完成させる。それを共有するものは、井上のように他人を拒絶しないといけない。つまり、井上のことばを拒絶しないといけない。拒絶することができたら、そのとき、そこにはじめて抒情の共有が成り立つ。





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