2020年01月12日(日曜日)
「渾沌」ということばがある。「無」ということばもある。そして、それをつなぐことばは、たぶん「闇」である。
しかし、私は「それ」を体験したことがない。
「闇」のかわりに「光」を組み込むと、私の知っている「世界」になる。
私は田舎に生まれた。
家の前には畑があり、道があり、山があって、直接は見えないけれど川もある。道が分かれるところに神社がある。こう書くと、それは「渾沌」とは違って、明確に整理された世界だ。
しかし、私はいま道と呼び、山と呼び、川と呼び、神社と呼んだものを、意識しない。存在しているけれど、存在しない。「ある」けれど、名前を持たない。ことばを持たない。
ことばにしたとき、ことばといっしょに「あらわれる」。
たとえば、いまの季節。昔は雪が降った。私の田舎は雪が多い。学校が終わって、家に帰って、帰り際に友達と、「川の向こうの段々畑でスキーをしよう」と言えば、そのときその「場所」が「段々畑」として「あらわれる」。そして、すぐに「スキー場」にかわり、「あらわれなおす」という感じだ。スピードを出しすぎる、いちばん下の畑で曲がり間違える。川に落ちる。そのとき「川」が「あらわれる」。
「ある」けれども「名前がない」というのが、私の「渾沌」である。「名前もある」けれども「名前が意識されない」が私の「渾沌」である。
「闇」というものがあることは知っている。しかし、私が最初に見たのが「闇」だという記憶はない。これが、私が「渾沌」について考えるとき、いつもつまずく問題である。つまり、「闇」から出発して「渾沌」を考えることができない。
「論理的」には理解できる(理解できているつもり)だが、現実感覚にあわない。