和辻哲郎『古寺巡礼』。私は高校時代、「木彫り」にあこがれていた。『古寺巡礼』を読んだのは、木と芸術(仕事)のことを知りたかったからである。しかし、はっきり覚えているのは、和辻が書いた芸術へのさまざまな批評(感想)ではなく、次の部分だ。
「二」の冒頭に出てくる。短く、帰省したときのことが書かれている。
昨夜父は言った。お前の今やっていることは道のためにどれだけ役に立つのか、
(ワイド版 岩波文庫、26ページ)
父が言った「道」は、「頽廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献できるのか」とつづくから、「倫理」につながる側面を持っていると思う。これに対して、和辻は「この問いには返事ができなかった」と書いている。
私がつまずいたのは、この「道」ということばの不思議さである。「倫理」だけのことなのか。違うような気がする。「哲学」を含んでいるような気がする。その思いは、和辻の他の作品を読むといっそう強くなる。もちろん、こういうことは高校のときにはっきり感じたことではない。あ、ここが気になるなあ、どうして突然、父のことばが出てくるのか、そこに「道」ということばがあるのか、ということだったと思う。
私は、立体感覚というものが私にはないということを痛感し、木に関わる仕事を高校時代に断念した。それからことばの世界をさまよい続けているが、迷うたびに『古寺巡礼』の「道」の一節がよみがえってくる。
和辻は「倫理」について書きつづけているから、何とか「答え」のようなものを書こうとしているのかもしれない。しかし一方で「倫理」の範疇に入らないことについても書きつづけている。それは「芸術」といえばいいのか、広く「哲学」といえばいいのかわからないが、そうした文章のことばも和辻にとっては「道」につながっているのかもしれない。
私は「道のためにどれだけ役に立つのか」と直接問われたわけではないから、「役立つ」かどうかはあまり気にならない。「倫理」ではなく、「哲学」としての「道」の方が気になる。『古寺巡礼』は「哲学書」というわけではないだろうが、今年は、原点に帰るつもりでこの本から再読することにする。